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10297ディフィニティブ1高井一彰 E-mail 6/2-09:17




ディフィニティブ

高井 一彰


夏目漱石先生に捧げる


東京から来た男たち
Guys from Tokyo




温泉地にある老舗の高級な和風旅館で、仲のいい三人がご馳走をかこみ、談笑している。服装は洋服のま
まだが、豪勢な舟盛をはさんで、くつろいでいる。
「しょう油とって」
しょう油差しを取ってやりながら、赤羽が話頭を転じた。
「こないだ、弥生さんに会ったよ」
「へえ、いつ?」
小さいが気品のみなぎる庭の石燈籠の方に眼線を落とすと一緒に、さまざまな春さきの可憐な草花が視界
に映じた。
「先週だったか、買い物のとき。レジやってるでしょ」
「ああ」
めいめいのタイミングで、彼らは食べ物を口に運んでいる。
三好俊也は若いサラリーマンである。スノッブな通念にまみれる彼は、どちらかというと、学校の成績と
実務に優れているが、実生活で実存の悩みが始まると、きわめて弱い。秀才タイプで神経質という特性を有
していた。
赤羽智文は、同じく若いサラリーマンで、三好の親友、同期で同僚となっていた。文学などを読むと窒息
してしまいそうな三好とちがって、禅味・俳味といったものを解する男だった。
多忙なスケジュールを整え、旅を計画したのは赤羽だった。
彼らは温泉に向かうローカル線の中から盛り上がっていた。市街から海岸や平野や丘陵と、移り変わる豊
富な車窓は、無味乾燥な毎日を送っている男たちを、ひとときだけなごませた。



翌日、三好と赤羽、湯藤は連れ立って登山に出かけた。
さわやかな土の匂いを嗅ぎ、両側の邪魔な草むらを掻きわけ歩き、やがて、いささか雪も残っている、晴
れ間が臨める峰に着いた。雲の切れ間から優しい陽射しがおりてくる、平均台のような尾根を伝った。
品の良い石仏が並び、そのそばで彼岸花が揺れる、小道の柔らかい茶色の土を踏みながら会話が続いた。
「ところでどう、うちの冴とは順調に行ってるの?」
「まあね、うまく行ってるよ」
「もう一緒に住んでるの?」
「そうだよ」
「あのマンションで」と赤羽が湯藤に注釈を入れた。
「まだ結婚ってほどじゃないでしょ」と湯藤は言った。
「うん」
「そりゃそうだ」
「兄貴が口出すことじゃないけど・・・・・・」
「わかってる。柴山との一件があるからだろう」三好は、さほど怒ったふうでもなく、言った。
「それじゃあ、弥生さんのことはふっきれたのかな」
三好は無言で応答した。
赤羽が湯藤に「やっぱり柴山は、まだおかしいみたい?様子が」と訊いた。
「よく知らない」
赤羽は三好にも聞いた。「知ってる?おまえ」
「あいつとは距離ができちゃったからな、すっかり」
彼らは柴山という、思考とは疑うことであるという公式に忠実な男の姿を思い返している。
峠に立って見わたすと、鏡面のような湖の輝きがまぶしく見えた。
その先には目当ての巨きな山寺がある。参詣への道すがら、近づきつつある禅寺の古びた山門を見あげな
がら、三好が赤羽に訊いた。
「赤羽の名前に戻って何年?」
年期の入った山寺の一堂は、観光客もまばらで閑散としていた。この塔頭の周辺には、上部の細長の孔の
軸に木の円盤を括り付けた、変わった卒塔婆がいくつもある。ここに来る人は胎児や幼年で亡くなった者の
魂をなぐさめ、小児の霊がすこしでも良いものに転生するようにと願って、卒塔婆の輪の側面に手のひらを
すべらせる。三好は話しつつ、無心に木の輪をまわしていた。
「何年だろうなあ・・・・・・安代から移って赤羽の家になったのが小学校・・・・・・の四年生だったから、もう、か
れこれ二十年近くなるんじゃないの」
言霊のように赤羽、三好双方の瞳から発した光が二人のなかほどでぶつかって、どこか地面に落ちた。
ふと赤羽は改めて相手の方を見遣った。赤羽は周囲の口の悪い友人からやさ男と呼ばれる美しい青年で、
皆からアイドル視される傾きもあった。すこし波打った長髪が首のまわりに垂れている。物事を見据えるよ
うな細い眼が、不思議に人に対しての優しさと釣り合っていた。眉毛と眼との境界が狭く、内に熱っぽいも
のを抱える者に特有の表面の冷たさが見られた。なお頬骨と薄い口唇が神経質さを物語っていた。他人には
鷹揚だが、そのぶん自分の挙動にこだわりをもつ態度が顕著で、とにかく彼の生活態度や発言にはナルシズ
ムの気があるようだった。
いっぽう三好は、純朴なつぶらな瞳が縦長の顔におさまっている点で赤羽に似かよっていたが、愚直な男
気において彼にまさっていた。最近さっぱりした短髪にし、たいがいの初対面の人にも好青年のおもむきを
与えた。赤羽が長身でモデル体型といえるのに対し、外みには対照的に三好の方はスポーツの鍛練でつくっ
たがっちりした体格を誇っていた。
赤羽が卒塔婆の円盤をまわそうとすると、隠れていた環の側面からびっしりダンゴムシがへばりついてい
るのがあらわれた。うへえ、と飛びのく赤羽を見て三好は大笑いした。その卒塔婆の主は次回、何に輪廻す
るのかは明瞭だった。
そののち彼らは、渓流ぞいの細い散歩道を通り、寄り道して地元の水で茹でるそばを何枚か食べてから帰
った。
その夜、宿では、考え事をして歩いていた三好が廊下で迷子になった。



その次の日は、赤羽がとくに楽しみにしていた古都の甘味処を訪問した。提灯の列が縦横につづき、みや
げ屋が立ち並ぶ石段の坂は、ひどく混雑しており、すこし迷いながら歩いて、ようやくのこと三人は、お汁
粉、わらび餅、ようかん、抹茶など、ギッシリ和菓子がひしめきあったテーブルを前にした。
「きようび、会社はいつ潰れるか分からないからな」
小ぢんまりとした店内の、粋な浮世絵を眺めながら話しはじめた。
「うちのカイシャも怪しいよな」
「うん。あぶないって言ってる。みんな。いまのところ、暗中模索で暮らしてるんだよ」
「おれたち、いっしょにカイシャ入ったからいいようなものの」
「一緒だから、けっこう心強いんじゃない?」と湯藤が横から言った。
「ああ、それでだいぶ救われてるよな」
「もっとも、もう部署かわっちゃったけどね」
「そうなんだ」
「異動でね」
赤羽の眉が軽く動き、話頭を転じた。
「ちょっと聞くけどさ、弥生さんを柴山にゆずったこと、後悔してないだろうな? いや、冴のことは一応お
いといてさ」
「後悔? してないよ」即答ではなかったが、迷っている瞬間も与えず、三好が言葉を返した。
「ほんとか?」
「少し、してるかな」
「なんだよ、冴をさしおいて」
「いや、冗談冗談。してないよ、べつに」
「ほんとかね。ならいいんだけど」
このとき三好が想いを馳せているはずの、柴山の妻である弥生は、パートタイムのデパート店員で、大手
百貨店の地下の食料品の売り場でレジスターをあやつっている。偶然に買い物の途中だった赤羽が、そのレ
ジに来たのは旅行の数日前のことだ。お互いに短い会釈をし、ふた言、み言ていどの言葉を交わしたぐらい
だった。
古都では彼らは武家屋敷や、路面電車や、石庭を観ながらの湯豆腐などを思い出におさめた。
河原の繁華街で天ぷらなどを食って、しめくくりに美しくライト・アップされた早めの夜桜を拝んだ。



娯楽室で卓球に興じ、対戦結果は三好のひとり勝ちで、心地よい汗をかいた後、この三日めの晩、浴衣姿
の男たちは、この旅で最後となる歓談のひとときをもったが、口数はすくなかった。豪華な料理に舌鼓を打
ちながらの物静かな談笑に、あしたからまた通勤かあ、という嘆息がまじった。三好が堪えきれず「さあ、
また始まっちゃうよ、サラリーマンの生活が」と声に出して言った。それに呼応し赤羽も「ひえー、また『
忙しい』とか『疲れた』とか年中ほざいてないといけないのか」と、おどけ気味に言った。
赤羽は内心で過去からの自己の便りを聞いた。学生の時、三好、赤羽、柴山は仲のいいグループだった。
その後、同期で証券会社の同僚となった三好と赤羽は、現在、変わらぬ交友を保ち、ともに独身である。そ
れのみか三好は、以前に許婚者の弥生を柴山に譲ってやったことがある、という過去を負いめにしている。
そんないきさつで、柴山とは交友関係が崩れて、気まずい距離がある。このことがもとで赤羽とも自然に疎
遠になっていた。赤羽が胸のうちに銘記した天秤みたいな図式の上には、三好は赤羽の妹・冴と交際してい
る、弥生を妻にした柴山は市役所に勤めている、という二項がちらついていた。おまけに会社はいつ潰れる
かわからない、という悲観もある。赤羽は真面目な性格だが優柔不断なだけに、過去と世間からこうむった
義理については、全身全霊の気合いというものを真剣に提示する事を敬遠しがちである。真摯で厳粛な、霊
魂の不滅の象徴みたような「気」の発露は、この時点では、まだ彼には縁遠いものだった。確かに、過去の
口を封じられたままで強制的に歩かされる魂は殆んど疚しさの意識で窒息してしまいかねない。


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10298ディフィニティブ2高井一彰 E-mail 6/2-09:19
記事番号10297へのコメント



無謀な原動力
Kamikaze Engine




また無私な通勤の日々が始まった。赤羽の余暇の愉しみ方は、近所のレンタルビデオ店で映画を借りて観
ることである。
その日、店員のエプロンの胸のところに大きく「感謝」という刺繍の文字がある店で、休日のビデオを厳
選すべく物色して、うろうろする単なる客としての赤羽の眼に、ある棚の一本のパッケージが飛び込んでき
た。そのデザインから、彼の繊細な心眼は三歳の頃に見た「カギの夢」を連想した。白黒の微粒子が泳ぎま
わる、いわゆる砂嵐の場面だったのが、いきなり鍵型の陰影があらわれ、立体的にその影がグッと、せりあ
がって前面に来る・・・・・・という夢だ。これを見ると同時に彼は、かつての自分の養父に遭遇するのではない
か、という予感に捕われた。連想を経由して急激に発現した、この根拠の無い予感には、旅のときに男たち
の会話の中であらためて、ほのめかされた内容が引き金として与っているかもしれなかった。
すでに旅の風景がなつかしくなってきた。吊革にすがって見る通勤の車窓をぼんやりと眺めた。女子高生
が明るくはしゃぐのを微笑ましく聞きながら、古都の洗練された庭園から、渓谷の途中を占めるまっ白な岩
場から、山寺の切り立った岩肌から、張りだした軒越しに露天風呂から見上げていた空の様子を思いかえし
た。
にわかの通り雨があったが、赤羽がレンタル屋の帰りに寄ってみたのは、幹線道路のガード下で、壁を利
用した写真展仕立てになっている場所だ。写真家の安西は赤羽の知人である。安西は、はじめ大手の広告代
理店でカメラマンをしていたが、やがて女性性の倫理を写真として映像化する経験を積み、世界的な評価を
得るアーティストとなった。そうして世界各国で個展をひらく巨匠になった。当人の禿げ上がった額がユー
モラスな感じをもたらすが、ユーモアとともにその写真は、観る者を「つきはなす」きわめてシリアスなス
タイルをかねそなえていた。現実との矛盾をはらんだ「思い」が、おもてに表われるのが作品だ、とする彼
の自論を安西は、正確に実践していた。
ところで赤羽たちの関心の的として、安西の問題意識は娯楽という観点で、言うなればポルノグラフィッ
ク(=Infernographic)な表現についての特殊研究(モノグラフィ)を、「淫喩」という彼の写真集のシリ
ーズにして発表し、問題提起としていた。
この「ディフィニティブ」の物語の構造に挿しはさまれる「夢」や「性生活」のタブローは、安西の理論
によれば現世を「地獄」とみる考え方に味付けされている。いま、蛇足だが当該の厭世観をインフェルノグ
ラフィ(=地獄のポルノグラフィ)と呼ぶなら、その観点にもとづいた夢や性愛の描き方はダンテの地獄案
内に似た輪郭に帰結するはずである。そのような思想性=文学性は、たとえば三好や赤羽などの受け手にと
っても、街、女性、空といった被写体の「彼岸」をめぐった安西の創造する作品のそれぞれに、いかんなく
発揮されているように思えたし、実際そういう若者の支持を集めて彼の写真はヒットしていた。
その雨上がりの路に設置された野外エキシビション「彼岸日記」の前で、はたして彼は、かつての育ての
親に出くわしたのだった。
ふたりは、ちょっと会釈程度をしてすれ違った。通り過ぎたあとの赤羽は、縁を切ったはずの養父の、今
ごろの突然の出現に、もしや自分を目当てに、たかりに来たのかと不審を抱かざるをえなかった。
そのころ街では湯藤が、電器店の店頭で偶然に柴山と出くわし、しばらく立ち話をした。店頭にテレビモ
ニタが並んでおり、そのうちの幾つかに「サクリファイス」「黒い罠」や「東京物語」「博士の異常な愛情
」といった映画の古典作品が映っている。
湯藤の顔かたちは少年そのものであって、その無害な丸顔は、たとえば童話のタヌキのような小動物に親
近な関係があった。柴山は、容姿端麗で貴族的な印象の顔である。しゃがれた渋い肉声は早口で聞く方に心
地よく馴染みやすかったが、言動のひじょうに奇異なスタイルは否定できなかった。
柴山は純粋な男の子みたいな湯藤とは、むかしからニュートラルな溝を隔てている。人生を前向きに推進
するヴィジョンたりうる場合には、妄想という負の視野をたずさえることも必要不可欠だと信じている柴山
と、憩いの空気と戯れる春の庭のような存在の湯藤とは、感性に段違いの差があった。
維摩は柴山に、どんな話題で応対すればよいのか判断できなかった。
湯藤は気づまりだったが、ひさびさに邂逅した柴山に、旅行の報告程度をして切り上げた。



ひと気のない路次で維摩が待っていると、赤羽がヘルメットなし、サンダルばきで原付に乗ってあらわれ
た。赤羽さーん、と呼びかけようとするが、その原付が停まらないので、維摩は逃げ出した。笑いながら追
いかける赤羽は、足を組んで、右足を上にし左側に突き出している乗り方である。ちょっとのあいだ、戯れ
にギャハギャハはしゃぎながら平行して走ってから、赤羽が、左手で、左に出している右足のサンダルを取
って、背後から維摩に投げつけた。頭か背中くらいに命中し、維摩も仕方なくワァーッとふざけた。
待ち合わせをしていた赤羽と維摩は、それから交差点を通って歩道橋の上まで至った。横断歩道の手前で
信号待ちのために並んで立っているあいだ、維摩が、隣にいた昼休み中の歯科助手の女性にむかって「おれ
の虫歯治してくれる?」と、からかったりした。
二車線の車道を見下ろしながらの会談では、維摩は赤羽に頼み事をしようとして、却って彼の耳に思いが
けない話を持ちかけられた。
「それにしても、よく知ってたね、おれの親父と安西さんが親しいっていうのを」
「安西の叔父さんが何回か、うちに遊びに来てたことあったんですよ、赤羽さんのお父さんと一緒に。子供
のときですけど」
「それで就職の面倒見てくれって?」
「あつかましいお願いなんですけど、すいません。兄にもそうしろってアドバイスされて」
「いいよいいよ、その代わり条件があるよ」
「なんですか」
「こっちは、おれのほうの個人的な頼みごとなんだけど、いいかな」
「いいですよ、なんですか」
「探偵やってくんないかな?」
「はっ?探偵ですか」
「そう」
維摩は依頼主の真意を測りかねた。



「余は好意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた」
これは漱石の遺したフレーズだが、三好の現在の心境も、自他の義務のはたしあいが社会だとこっちは規
定しているのに、ちっともその潤いがない、という不満があった。
三好は連日、救済の種類について考えた。意図的な失恋という悪魔的なものに創造された被造物である彼
は、罪過にはじまって受難、贖い、啓示といったもろもろの段階の場面を、ひとりで馬鹿みたいに演じなけ
ればならなかった。彼の原罪の実体は唯一だが、受苦や贖罪という彼の責任の唯一性は多数ある。
そんな三好に思わぬ出来事が見舞った。不意に三好の自宅を、弥生が訪れてきたのだ。
おどろき、まごついた三好に、弥生は「すこし用立ててもらえないかと思って・・・・・・」と切り出した。
「お金のこと?」
「そうなの」
「そんじゃ、柴山に頼まれたんだ」
「こんなこといいづらいんだけど、赤ちゃんが死んじゃったし・・・・・・」
「それで足りないっていうんだね。いいよ、子供の供養ぐらい何でもないから。おれは柴山に気兼ねしてる
わけじゃないから、心配しなくてもいいよ」
「ありがとう、それならいいんだけど」
「赤ちゃんのためだもんね」
「うん・・・・・・」
「念を押すようだけどね、柴山に黙って来たんじゃないでしょ?」
彼は弥生がうなずくのを確認し、つづけた。
「そんなら大丈夫だ。すぐになんとか工面してみるから、ね」
「いまは、冴さんとはどうなの?」と突然、弥生が聞いてきた。
この話題が顔を出すとは思っていなかったので、すくなからず三好の気は動転した。
「えっ? 付き合ってるよ。うまく行ってるよ」
「それも確かめておきたかったの」
「なんだ、そんなこと・・・・・・」
「いろいろ心配症だから、わたし」
「そんな心配要らないよ」彼は性急に風向きを変えようとした。「柴山は市役所づとめでしょ」
「うん」
「異動が多いの?」
「うん、お給料もいくらか上がったんだけど、だけどお金が入り用なことも増えてきたの」
「家庭ってなると大変なんだ。できる限りのことはするよ、おれとしても」
三好は本気で、特定の先祖ではなくとも戦死者と水子の供養は絶対に重視すべきという信条だった。



場所柄を変えようと誘って、三好は弥生と夜桜の咲き誇るこの地域の城址に行った。これは二人にとって
の久々の春先のデートとなった。夜桜のもと、そぞろ歩きを楽しみながら、二人は言葉の錘を戸惑いの中に
垂らした。
「俊也、ほんとはね、きょうはもっと大事な話があるんだ」
「それは、おれたちの過去に関係があること?」三好は考えをまとめながら言った。「このきれいな桜の下
で、むかしの話なんかやめようよ」
「過去のことは忘れちゃった?」
「忘れてないよ。忘れてない・・・・・・弥生は『あのこと』をどう思ってる?」
やや相手の返事を促す間があって、弥生の瞳が訴えかけるほどに揺らいだ。「もう清算がついた話だと思
ってる?」
「いまは、思ってない」
「いまは思ってない?」と三好は鸚鵡返しに返した。
「睦樹も、まえの睦樹とは変わっちゃったし・・・・・・」
「フーゾクに通ったり?」まずい冗談がたたったかな、と悔やむ間もなく、弥生の顔はそれに肯定の感じを
与えた。
「え、まさか、ホント?」
三好は性風俗産業の店には一歩も入ったことはなかったが、性に大らかな文化圏というのは悪くないと思
っている程度だった。性とは道端に祭られている道祖神ぐらいのものだ、という頭でいる。
「わたしから心が離れちゃったみたいなの」
三好は冷静に言葉を継ぎ足した。「それは、赤ちゃんのショックがあるうちは、わからないでもないけど
・・・・・・しばらく手伝えることがあったら、なんでも言ってよ、生活の上でもさ」
言葉が途絶するかん、両者はこの咲き誇った実存の蜃気楼にうずもれていた。やがて、宙空を漂っていた
三好の心積もりは「金を貸してやる」という結論の床に落ちてきた。
「おれも昔ほどは貧しいわけじゃないしさ、金子のほうは安心していいからね」
「ありがとう、俊也」
「弥生に俊也って名前、言われたの久しぶりだな。もう一回呼んで」と三好は少し笑った。
弥生は日ごろからおとなしく、冴の性格と対照的である。かならずしも甘んじて運命からの無為を受ける
わけではなく、行動する自我をわきまえるタイプの女性であった。



維摩が応諾した件を実行に移す日になった。
維摩は柴山の弟であり、フリーターである。いまだに世間馴れしておらず、ごく表面的、趣味的な関心の
みで暮らしている。 普段は怠惰に埋もれて実質的に「何もしない」役を自分から買ってでている代わりに、
外部から見聞を重ねていく好奇心は、彼の気持ちを行動に向けて強く動かすに足る。世俗の秩序、利害とは
無関係な立場、いわば書生的な態度から事柄の推移を傍観するのが彼の人生観だ。大乗仏教の経典「維摩経
」から周囲の者が採択したあだ名だが、ことさらその特性は、お世辞にも身につけていない。就職活動にあ
たり、ひととおり維摩は考えを巡らした。柴山兄弟にとっての叔父である安西さんと、赤羽の実父とが親友
だという背景がある。安西さんから赤羽の父へのツテで就職の斡旋を手伝う、という筋書きだったが、その
代わりに赤羽が、養父の動向をさぐる探偵をやってくれという交換条件を提示したことだけは、彼の勘定の
外だった。そのさい、怪しい男女が指定の時間内、指定の店にあらわれるはずだと説かれた。もとより弟は
探偵ゲーム程度に思って軽く引き受けた。
維摩は赤羽から指定された駅前で、問題の男女を待ち受けることにした。ジンクスを気にする方ではない
が、たまたま維摩は辻占の杖を携えている。定刻から三十分おくれで、男があらわれ、地下鉄の出口まで歩
いていく。赤羽に言われたとおりの背格好と年齢の男性である。男を見張っていると、地下道の出口から若
い女が登ってくる。男は、女と合流し、歩き出す。維摩がそれを尾行していく。
この二人の関係は何だろう、と維摩は想像をめぐらせる。二人はファミリー・レストランに入って、親し
げに話し合っている。そのあいだじゅう、ずっと維摩はその脇のテーブルに着いて、聞き耳を立てていた。
その後、デパートでショッピングをしていたが、さしたる買い物をするでもなく、けっきょく、その日は彼
らの間柄・身元はもとより、はっきりしたことは何もつかめずに終わってしまった。維摩はひじょうに落胆
し、帰途についた。その帰り道、彼は馴染みのパン屋で、従業員の女性を口説いた。たいがいパン屋の女の
子は面接のとき、カオやスタイルで採用している、というのが彼の持論である。のみならず、パン屋や洋菓
子屋の女の子の制服は、ワンピース、浴衣、OLのスーツ姿に次いで、彼のフェティシズムをくすぐるコス
チューム・ランキングの上位を占めていた。
この賢者は、ペテン師の遺伝子が駆動力となった痴性を放った。
「目がきれいだねえー、ほんとに。おれはその目に吸い込まれて溺れてもいい」
女性は照れながら、押し殺すようにクックッと笑っているだけだった。



首尾がはかばかしくなかったものの、維摩は赤羽のアパートへ赴き、尾行の報告をしなければならない。
赤羽のアパートは郊外で、維摩は二、三十分ほど私鉄に揺られる必要があった。
「変な交換条件を出しちゃって、申し訳ない」
「いえいえ、暇な身分ですから。でもまあ、びっくりしました。いきなり「探偵やってみるか」ともちかけ
られて」
「ごめんねえ。個人的な用件で、きみに無理なこと押し付けちゃって。で、どうだった、探偵ゲームは?」
「はあ」
「うまく行った?」
「「怪しい男女が指定の時間内に、指定の場所にいる」っていうことでしたよね」
「うん、それを見つけてくる、そういう指令だったよね」
「赤羽さんに言われたとおりの背格好と年齢の男性はいました」
「ひとりで?」
「ええ。その時は」
「あの駅前に来たんだ」
「はい、定刻よりも三十分遅れで。それから歩いていって、地下鉄の出口で連れの人があらわれて」
「若い女性だろう」
「そうです。ご存知なんですか」
「まあ、すこしは」
「やっぱり、あの女の人の方に主な目的があるんですか」
「や、そういうわけでもない。男の動向をさぐるのが目的だけどね。それに女性の方がくっついていれば、
どちらにしてもおんなじことでね。それで、うまく尾行したの?」
「あの晩ずっと、その二人をつけまわしたんですが、そのあとファミリー・レストランで夕食をとっていま
した」
「それから?」
少々恐縮しながらも維摩は正直に報告した。
「隣のテーブルに着いて、その席から聞いてたんですが。男女の関係っていう気もするし、そうじゃない感
じもするし・・・・・・。尾行しながらも、いろいろ想像をめぐらせてみたんですけど・・・・・・。いずれにしても、
二人とも気の知れた間柄らしいという感じはしました。素性というほどは判りませんでした。正直に言っち
ゃいますけど。あ、でも苗字だけは判りました。男の名前が・・・・・・」
「安代(やすよ)だろう」
「知ってるんですか」
「そりゃあなあ」
「女の方が「しをり」です」
「それも名前だけは知ってるが・・・・・・」
「ですんで、報告するほどの事はないんです」
「会話から判断できたのはそれだけ?」
「はい・・・・・・。身元といっても、はっきりしたことは何もつかめませんでした」
赤羽が思案している間があったので、ちょっと維摩は辛抱させられた。
「うーん。ま、正直でいいね」
「はあ。すいません」維摩の口調だけは、しおらしかった」
「いや、いいんだ。こっちもついでに頼んでみただけのことだからさ。交換条件は・・・・・・就職の斡旋だっけ
ね」
「すいませんでした。お役に立てなくて」
「いや、いいよ。名前だけは聞き出せたんだ」
「もう一度やりましょうか?」
「いいよいいよ、きみの熱意はこれでわかったからさ。なんとか口をきいてあげるよ」
「はい。よろしくお願いします」
「うん、頼んでみる」
きわめて楽天家の維摩は、みずからの努力の不充分を悔やみながら、さして深刻でない。
ただ、赤羽に熱意を買ってもらえて、口を利いてもらえる特典がありがたかった。

十一

三好の気分は、へいぜいにも況して安らかでなかった。
彼の情緒はいろいろ雑多な念に集中攻撃を受けた。弥生は困窮して金子を借りに来た。柴山は妻をないが
しろにし、フーゾク通い・・・という意外な側面を告白された。そうして三好は冴とつきあっている。
弥生は、おとなしく、冴の性格と対照的だった。かならずしも甘んじて運命からの無為を受けるわけでは
なく、行動する自我をわきまえる女性だ。だからこそ、二人のうちいずれかが踏み出しさえすれば、復縁は
容易なように感じた。それでどうにかして、三好は弥生との実存の距離感を触覚的に測りたいと思った。
その次に思い立ったのは「彼岸日記」の安西さんに話を聞くことである。写真巡礼をする風流人は、写真
を撮りがてら、自分のノートにいろいろメモをしていた。あるとき赤羽はファンの一人としてその創作ノー
トのような代物を見せてもらった。整理すると大要は次のようだった。
大乗仏教の「止観」という精神修養のモデルを思い浮かべてみる。「象」にとらわれている日常から他界
の「理」を解するまでには、こころの動きを止める作業がともなわれる。すなわち、魂が理性をつかって経
験と現象の世界を「破壊」し、自身の情動を直観へと還元する「カタストロフ」のプロセスが要請される。
水面にひろがった波紋をちゃんと静めて、精神統一のうえ心を平穏にすることに等しい。
ところが「理」から「象」に戻ることも肝要で、魂が直観と想像力を用いて世界を再「創造」し、ふたた
び情動を理性へと抽象してゆく、新しい秩序の「顕現」という反対の道すじもある。これは水面を覆った濁
ったぶんを取り除き、きちんと水ぜんたいを澄んだものにして内面を視えるようにすることだ。
魂の全体の運動をなしているのは、コスモスとカオスのエッジに存するこの「止観」の仮説である。創り
手の想像力が外界=環境の「事」「物」と対峙し、直視する過程では、そうした魂の「時間性」の流れの循
環が生起している。・・・・・・
他にも『大乗起信論』から採ったとおぼしき「心生滅」「心真如」などの用語が散りばめてあった。けれ
ども粗雑な三好の頭脳には、生滅だの真如だのアーラヤ識だの詰め込まれても、いまさら消化しようがなか
った。反ベタネタ性のアフォリズムの精神の復興? 安西たちの創り手の政策は、芸術家でも職人でもない三
好には、いっこうに実感できぬ範疇にあった。


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10299ディフィニティブ3高井一彰 E-mail 6/2-09:24
記事番号10298へのコメント



無為の景物
Things in Vain


十二

ひと目でOLとわかるスーツ姿の冴は、すでに着席している。
「お呼びでしょうか」冴の目前に維摩が座り、用件を聞く準備をした。
冴はOLで、赤羽の妹であり、三好の恋人である。奔放な自我をそなえており、いささか性格の悪い美女
としても評判だが、必然として兄思いのところがあった。冴はりりしい表情をした、いわゆるオトコ顔の美
人で、心なしか頭部は大きめで、やや面長のところがある。くっきりした眉に、はっきりした眼が、彼女の
おもざしの快活さと清潔さを物語っている。薄い唇の、そのきりっとした曲線のかたちも魅力があった。目
を細め口をあけての屈託のない笑い方が印象的な女性だった。いやらしい意味でなく男好きのするイメージ
を一般から持たれていた。維摩も、竹を割ったような性質の冴から、溌剌とした小気味良い言葉を聞くのは
貴重だと思っていた。
注文を聞きに来たウェイトレスに向かって、冴が注文するのに継いで、維摩は「僕は・・・うお座のB型です
」と冗談を飛ばした。「なによそれ」と冴が呆れて、ウェイトレスは困った顔をした。
「きみ探偵なんだって?」
「なんですか、薮から棒に」
「お兄ちゃんから聞いたんだけど」
「まあそうですけど。役に立たない探偵ですよ」
「お願いがあるの。調査の依頼受けてくれる?」
「相談ってそれですか」維摩は、やや謙虚めに付け足した。「はあ、こんな「使えない」探偵でよければ」
「俊也がだれか他の女と浮気してるみたいなの」
「ほんとですか。それは大変ですね」維摩はいかにも初耳だというように言った。「浮気調査ですか」
「俊也の身辺をそれとなく見てくれればいいの」
「三好さんをさぐるんですかあ・・・・・・直接聞いちゃいけませんか」
「俊也に会って聞いてもいいけど、浮気してるかなんて聞かないでね。もっと他の聞き方で」
「わかってますよ。直接会って間接的に聞くんですね」釘をさされた彼はくどいけれども確認してみせた。
「浮気してるという気配はあるんですか?」
「うん、何かと女に会う機会を設けてるみたい。嗅ぎ付けちゃったんだから」
「じゃあ、またゲームと思って承りましょう。話はそれだけですか?」
冴は続けた。
「今日の話はそれだけだけど、悩みっぱなしよ。もうゴチャゴチャしちゃって訳わかんないのよ。お兄ちゃ
んも・・・・・・」彼女は言い澱んだ。
「お兄さんも、何ですか」
「うちのお兄ちゃん、むかし養子だったのが戻ったでしょ? あたしはもともと赤羽だけど。それで、今はい
い企業に入ってちょっと偉くなっちゃったから、とうとうゆすりに来たんだって」
「誰がですか」
「もとの育ての親の安代っていう人が」
「えっ、誰さん?」
「安代さん」
「知らなかった」
「そういう事情があるのよ。なあんか変態みたいに行く先、行く先でウロウロしてるんだって、そのオヤジ
が」
「こわいですね」
「気持ち悪いでしょ。それで金の無心に来たらしいのよ、ついに」
「赤羽さんカネ持ってそうですもんね。それにしても大変だな、それじゃあ。冴さんはどう思ってるんです
か、その事には?」
「けっきょく金の話だから、あたしはあんまり深く立ち入りたくないんだけど、身内のことだから・・・・・・悩
んじゃう」
「冴さんでも引っ込み思案なことがあるんですねぇ」
「そりゃ、あるわよ」
「しかしイヤな選択肢に迫られましたね」
「こんどは反対に養ってくれっていう腹なのよ、ぜったい」と彼女は自分の確信を話した。「お兄ちゃんの
育ての父親は、まえに離婚してて、そのあとの奥さんが最近死んだのね。 その娘さんがもう大きくなって
て、その親子して近づいてきたみたいなのよ」
「義理の妹になるわけですよね。ひょっとして、その娘さんの名前「しをり」ですか」
「しをり、そうだけど、なんで知ってるの?」
「なんだー、そうかあー」
「ねえ、なんで知ってるのよ!」
「赤羽さんに頼まれて尾行したことがあるんですよ。じつは先日」
「なにそれー!」
「例の「怪しい男女」というのは話題の養父と娘だったんだな。皮肉なもんだなあ」と、いかにも落胆した
ように維摩はガックリうなだれた。「こんなにあっさり正体が。チカラぬけちゃった」
二人は、複雑な笑みを浮かべあう。
「とにかく、ねっ、あたしのほうは今は俊也のことが気がかりだから」
「ああ、はいはい、わかりました」
「お願いね! ちゃんと調べてよ」
「はい、前回は遠まわしな方法で失敗したから、今度はきちんと三好さん自身の口から問いただしてみます
よ」
冴は自分に発破をかけるように締めくくった。「愚痴こぼしてもいられないけどね!」

十三

喫茶店で浮気調査を持ち掛けた数日後、赤羽のアパートに冴が来ている時にも、はたしてあの驟雨のあと
に出現した暗い運命の代表者が、いままた玄関にあらわれた。テーブルを挟んで向かい合っている赤羽と安
代の話を努めて耳に入れぬふりをしながら、冴はかいがいしく狭い部屋を行き来し、二人にコーヒーを入れ
ていた。
安代克巳という、赤羽の元・養父は、おぞましい影となって兄妹の実生活に君臨した。さなきだに情味に
乏しい彼の日々には、この男が、金銭をせびるためにこの世にあらわれて魂の安寧をおびやかす愚劣、卑怯
の具現者として描出された。通勤途中でも勤務中でも、薄汚い労務者風のいでたちをした、背の高い文字ど
おりの悪魔が、彼の脳裡にあらわれた。
対話は前回よりいっそう「黙」に始終支配された。赤羽は養父の安代の顔をしげしげと観察する。狡猾な
養父のツラをした悪魔は、いっしゅ異形ともいえる頭の鉢の持ち主であり、赤羽の所謂よどんだ眼つき、及
び、まばらに繁った無精ひげが、この東京において全ての屈折した場面を生活してきた、彼の無気力の全て
を表現していた。安代克巳は、第三者には汚らしいうだつのあがらない中年の代表として、誰の眼にも留意
されない矮小な存在だった。でも同時に赤羽にとっては、この存在は実生活に招来された、最も忌まわしい
看過できぬ死神だった。
赤羽の私生活がゆうする彼の神学の特色では、一貫して安代は「濁った眼つきの男」と表象されることに
なり、人と話すときの「さぐるような」特徴的な上目遣い、神話的な蛇のいやらしさが、きまって彼の思考
回路に厭わしいオブジェとして強く刻印された。

十四

畏怖の種である、澱んだ眼をした猫背の来客が、その娘のしをりを連れてやってきた。
養父・安代にとって実の娘だから、しをりは赤羽からは義理の妹にあたる。彼女は弥生と同様に一貫して
控えめな、養父の陰に隠れて活動するような性質をそなえていた。しをりは、この再会のときには、赤羽の
記憶にある彼女よりも、格別に美しくなっていた。安代の手による貧乏への虚飾かどうか、清楚なワンピー
スがよく似合っており、見ようによっては比較的、お嬢様ふうのファッションともいえる。
「しをりも、もうずいぶん成長しただろう」
赤羽は沈黙をつづけた。しをりの美しさに戸惑っていた。
「あなたは、だいぶ偉くおなりになったんでしょう」
赤羽は黙りこくったままだ。
「どうか嫌がらないで下さい。急に訪ねてくるなんて、いくら何でもぶしつけかとも思ったが」
ねちっこい視線を絡ませてくる、かつての養父に応えようもなかった。
「金をせびりに来た、などという思し召しかもしれないが、そんなに悪く取っちゃいけないよ」
安代は用意してきた汚い書き付けを内ポケットから取り出し、食卓の上に無造作に延べた。
「これは何ですか」
「あなたが赤羽家の方に移る際の証文には、今後は無心に行くなどの不義理をはたらかぬよう、ちゃんと双
方でサインをしておる。そんなことは私もわきまえているつもりです。智文さん」
赤羽はまだ黙るしかなかった。
「いいや、それ以前にさ、こんな紙きれなんぞをタテにして、どうこう言うつもりはないからね」
安代は言葉以前の強引な論理を並べ立てて赤羽を虐げる。
「かつての育ての親とはいえ、こうして再会できたのは少なからぬ縁というものだ。人生は悩む事も多いだ
ろうが、そのつど友情や愛情の絆がそのこころを慰め、癒してくれるもんだ。だから智文さん、あなたも大
人になったって、親子の情に思い切り甘えてもいいんだよ、いったん破れた絆などと言わずにさ」
赤羽はだいたい交互に、安代としをりをチラチラ見ていた。
親子は退出したが、今のところは引き下がっておいて、またいずれ邪魔しに来るぞという気構えがありあ
りと看て取れた。

十五

下町の駄菓子屋の前にベンチがしつらえてある。氷菓子のたぐいなど齧りながら、湯藤をまじえて、三好
と維摩が仲良く語らっている。
それまでの雑談に、三好は決意して彼の懸念を滑り込ませた。
「柴山は大丈夫か。半年まえ引越したんだってな」
「自分の兄貴ながら、あの人の変人ぶりにはもう、周囲の者はハラハラしどおしですよ。いつも目が血走っ
てるし。猜疑心のかたまりみたいなんです」
柴山睦樹は役人であり、元は主人公・三好と赤羽の共通の友人である。極度に猜疑心が強く、神経症の気
質の限度を超えた偏執狂(パラノイア)といえる。
このときいやでも、三好と湯藤は、過去に、柴山と三好が一緒に弥生を好き合って競争となり、譲っても
らって結婚したという経歴を思い出すことになった。それを知らないのは維摩だけだった。湯藤も最近にな
って詳細な事情を明かされた。
湯藤が言った。「なんか、変な妄想が頭の中渦巻いてるって、聞いたけど」
「いつ妄想が暴走して、突如発狂でもしやしまいかと思って。だいいち弥生さんに悪いですよ」
「それじゃあ、柴山の実家の人も困ってるんじゃないの?」
「ええ、だから一家みんな、困惑することしきりです。みずからの論理だけで、目につく物事すべてを弾劾
するんですよ」
「因業な星のもとに生まれついたもんだ。昔からそういうところのある男だった」と三好は回顧した。
「まさか今までの水子がたたって、取り憑いてるわけでもないようですけど・・・・・・」と維摩は言いかけて、
すぐ自省して「あっ、まずい冗談でした」と言った。
「流産なんかしたら、余計にひどくなるだろうな。弥生さんは、なんて言ってる」
「とりたてて表面に表さないようですけど、やっぱり不安でしょう、それは。まずうちの兄貴のせいで、幸
せそうには見えません。かわいそうになりますね」
三人の考えは、何度も流産している弥生の境涯に滞留せざるを得なかった。
「どうして結婚したんですかね、兄と弥生さんは?」
「それはわからん、当事者の問題だから。本人たちでないと」と言いつつ三好は、夫婦に対して知らず識ら
ずのうちに、あてつけがましい気分に支配されたようだった。「しかし何度も流産するというのも、運命の
結びつきが良くない証拠かも知れんな」
柴山と弥生の暮らしについての忖度に落ちてきた会話は、別の糸口をさがして再び浮き上がってきた。
「赤羽の方もちょっと身辺でゴタゴタがあるようだな」
「片付いてないんですか?」
「ぜんぜん。始まったばかりみたいだ」
三好は、二人が聞く体勢を待ってから話し始めた。「以前の育ての親にバッタリ出くわしたんだ」
「以前の養父とは縁を切ったはずでしょう、赤羽さんは。今ごろ、突然出現するってことは、・・・・・・」
「うん。もしや自分を目当てに、たかりに来たのか、と・・・・・・」
「不審を抱いたわけだ、無理もないですね」
「あの時からして、養育費という形で、カネで決着を見た話だから・・・・・・」
「養子から実子にもどるときに?」
「そうだ」
「それは、たかりにきたのかもしれない」と湯藤が言った。
「宴会には来そうもないな、だから」
「宴会があるんですか?」
「安西さんの主宰で」湯藤が維摩に簡単に註した。「きみも呼ばれると思うよ」
「就職の口を手伝ってくれたんでしょ、安西さん」と三好が言う。
「それじゃあ行った方がいいよ」と、湯藤は宴会行きを薦めた。
この機会にと思っていた維摩は、三好が浮気をしているとの事実を割り出すはずだった。しかし、言い損
ねた。そのうえ維摩は、自分にとっては嫂にあたる弥生が、三好の浮気相手なのだ、とまでは解明していな
かった。

十六

懶惰な月日を紛らせるため、放縦な維摩は、街頭でひんぱんにナンパをした。
「きのうきみが夢に出てきた」と言って気軽に口説くのも、ほぼ彼の日課のようなものだった。そうすると
相手の女性は多くは拒否するでもなく、たいがいは彼の冗談っぽい文句に好感のみを顕わした。さいきん坊
主頭にした維摩は身軽で、性行為について彼なりの方法論を駆使した。
ラブホテルでも、維摩はマメにベッド・インの前にも口説き文句を吐いた。たとえば女性が「きょうって
あなたの誕生日なんでしょ、プレゼントあげようか?」と言うと、維摩は「特別な日は作らない。きみとい
るときはいつも特別な日だから」・・・・・・などと言う。この場合も、真顔で発した維摩の気障な言葉を、女性
は冗談か本気か取りかねて、笑って応対するのみである。
いってみれば、維摩の表情は世間的に「無難な」生き方の産物だった。あたかも、下ネタのうまい現代の
犬儒学派の生き残りのような人間だった。彼の生活の大部分は、たんに性欲が総じて刺激から行動への活性
化のための解発因(リリーサー)だといえた。
オンナにカラダに飽きると、気分転換と称してたいそうな読書をした。苦労して読了したハイデガーの『
ニーチェ』には、維摩にも気に入った詩のような箇所があった。「認識は、それぞれ独立に存在している二
つの河岸をいつか遅ればせに結合する橋の如きものではなく、認識そのものが河流なのであり、みずから流
れつつ、そもそも両岸を創造し、そしていかなる橋がなしうるよりもいっそう根源的に、その両岸を向かい
合わせるのである」
彼は哲学者のこの文章だけは、彼の自説に併わせて理解しえたと思い、ひとり悦に入った。

十七

緋毛氈をひいてある茶席は晩春から初夏の中に埋もれ、新緑の色にたたずんでいる。縁側を挟んでよく手
入れされた庭園が見える。数寄屋づくりで、小堀遠州の「綺麗さび」の概念で整えられた庭が好ましく思え
る。枯山水や鹿威しを配する純和風の庭、清らかな流れに、霰散らしの露地、他に蹲這、借景など、赤羽の
趣味に叶っていた。浅葱色の着物をまとったしをりが、いちだんと美しく映え、こちらが気おくれするほど
気だかい存在に思える。
「そういう愛情の関係から言えば、このしをりだって、あなたにとってみれば、たかたが後家の連れ子だと
お思いかもしれんが、れっきとした兄妹だ」
あいかわらずの赤羽の沈黙に、筧の打つ音響が届いた。
「私も、その後家に死なれてさ、働く気がなくなったわけじゃないが、何もかも不如意な状態におちいった
わけだ。この生活は最悪だ」
話題の手綱を握っている安代は、赤羽としをりの居ずまいが場所にマッチしているのに比して服装のせい
で身分不相応にみえるようで、ここでは彼だけが「浮いて」いる。
赤羽はしをりの美しさに心が揺らいでいる。
「あなたがもっとも気になってることは、家というものの所有物にされることでしょう。そうじゃないです
か?」
赤羽は、けだるげに重い口をひらく。「そうです」
養父は得意げに言った。「当たりでしょう。そんな不安を解消するために、私は来たんだ」しつこい交渉
にすっかり食傷する赤羽を尻目に、さらに慇懃無礼な感じで安代は独り語りした。
「私はあなたを持ち物なんて思ってない。りっぱなひとつの人格だ。赤羽さんも器の小さい事を言わずに、
私を一人の人格として智文さんを育てた男として認めて欲しい。そうして、私もまじえて愛情だけに彩られ
た関係を回復したいんだ。しをりも仲間に入れてな。これを聞けばどうです、こころの安らぎが得られまし
ょう」
「そう聞けば、なるほど、納得できますが・・・・・・」
「そうでしょう。それはしをりも望むことだ。具体的には、そうですな、また私の養子になっちゃどうです
?」
「何を言い出すかと思ったら・・・・・・」
突然の婿養子の話に、彼は魂消るばかりに眼の色が変じた。
「いやいや、まじめです。私はまじめです。本気で言っておるのですよ! もっとも、これまでも、私たち
は、あなたのものの考え方や感じ方まで強制してきたおぼえはない。あくまでも、生き方を自分で決めたい
と思ってるのは、わかってる。でも智文の」と呼び捨てになって「その頭の回転の速さや感受性で、ぜひ考
えてみちゃどうです?」
話が途切れた。一同は、庭に眺め入る。
「何か食べに行きましょうか? 再会の記念に」

十八

小さな疎水の流れる道を、赤羽としをりが散歩している。小道は清潔なとりどりの草花に被われている。
付近に旧式の民家が見える集落である。
しをりは、地がやや浅黒く、髪型はショート・ボブで、日本人らしくのっぺりしている顔で、まつ毛や下
まぶたの膨らみが誰にも好ましい印象をさずけた。評する中には、すこし顎がしゃくれぎみなのを弱点とい
う者もあった。彼女は、活発そうで意志の強そうな、ひと重の釣り眼の中に、物静かな大きい瞳を輝かせて
いた。ともあれ、小柄で細身な彼女には、たいがいの者が、すがすがしい第一印象を受けた。
ロングのワンピースで記憶に残っているしをりも、きょうは着物に琥珀色の帯を締めていた。暖色のベー
スに、見方に応じて葉にも渓流にも見える稲妻状の複雑な柄が流れていた。
赤羽が、自分のふところから例の証文を取り出してみた。
「こんなもの幾ら見せられたって、くだらない。安代克巳? おれにはすでに縁もゆかりもない男だ」
「そんなこと言わないで」と、しをりが哀願した。赤羽は無言をもって応じた。
「せめて形式上だけでも養子になってくれれば、・・・・・・」
赤羽は、そう言うしをりに、いくつしむ気持ちを視線にたたえながらも言った。「きみはあのずるがしこ
い男のまわし者か?」
「そんな、打算で言ってるんじゃありません」
「浅はかな!」彼は手許の紙を叩いた。「こんな署名がどうだっていうんだ」彼の厭世観が言語の水柱とな
って噴き出した。「おれの人生は全部ナントカ代、ナントカ代・・・・・・カネに換算されるばかりだ。おれに投
資した過去を今になって取り返そうたって、そうはいかん」
こう言いながら、心情的には、女が美しくなっていることからの一つの打算が働いているはずだった。同
時に無意識的には彼は、再び養子になれば金のことをうるさく言われなくなる、との打算を抱き始めた。そ
うして彼は、こんなふうに生じたわだかまりを、なんとかごまかそうとする表情をした。
「そんなこと言わないでよ」彼女はどうやら媚びを含まずに言ってのけた。「私のこと妹だと思ってる?」
「そりゃあ、間接的にはそうだ」
「私は妹でしょ?」しをりは毅然としていた。
赤羽は向き合って言った。「きみのことを問題にしてるわけじゃない。きみの責任とは全然関係ない。お
れの人格を無視したあいつらが許せないんだ」
今度はしをりのほうが無言で応ずる。
「あいつらが」と、赤羽は罪状を数え立てるように言った。「決めつけと、思いつきと、思い込みを理不尽
に一緒くたにして、おれの魂を葬ろうとするんだ」
しをりは、火の粉のように彼の人生に降りかかった災禍を弾劾する、彼の抽象的な舌鋒に気圧された。加
熱する赤羽は口調がぞんざいになっていたが、かまわず主張を続けた。
「おれの志を理解できない奴は、実の親だろうと育ての親だろうと、親とは認めねえさ。おれの心の生活は
カネやメシで養われるものとは違うんだ。それに、おれの魂は別に精子と卵子から生まれたもんじゃねえ」
彼は警句のような言葉で気炎を上げた。
「たかだか、これが世間一般だと思ってるだけの道徳をおれにあてはめやがって、・・・・・・!」彼は舌打ちを
介し言った。「愚にもつかねえ奴らだ」
そうして、ここまで捲くし立てたのが、一段落した調子になった。
「つまらない境涯に生まれたもんだね、おれも、きみも」
「智文さん」しをりは心底、困惑している。
「きみのお父さんを憎む結果になったのは済まない。だけど拭い去ることのできない結果だ。しをりさん。
これじゃ埒が開かない。循環する問いかけの途上にいるようなもんだ」
お互いの視線を見合わせる瞬間があった。それから場の空気が一転し、恋の告白のような趣になった。
「もし、おれの方に過去を埋め合わせする方法があるとしたら・・・・・・安代を親代わりとして、また世話をみ
てやることじゃない」と、うっかりと彼は口説くような言葉を口走った。「きみの生活の面倒をみてあげる
ことぐらいだ」
「そんなの理屈じゃありません」
「理屈じゃなくっても、おれにとっては、過去を未来に手引きしていく筋道を立てる唯一のやり方だ」
そう言って赤羽は、しをりの身体を引き寄せた。赤羽一流の屁理屈は、実生活をいとなみ世間に揉まれ、
職業にかかずらうにつれて肥大化していく意思への束縛に、自己の積極性にのしかかる義務に抵抗する精い
っぱいの言葉の産物だった。

十九

赤羽がしをりと妙な理屈をひけらかして勝負しているあいだ、屋形舟では、例の安西さん主宰の宴会がひ
らかれている。維摩も安西さんの度量に惹かれて、二人は懇意になっていた。他方、三好は懸念どおり欠席
している赤羽を思いやっていた。
「誰かに初めて会っても、相手の眼つき、表情、それから肉声で、いいかえれば言霊で、そいつの内面が判
断できる」とお得意の持論を安西が披露した。この写真家は、記したごとく柴山兄弟の叔父である。一般に
は「高等遊民」の位置付けを与えられている人物といってよい。つねに彼は数珠を携えており、聖域の巡礼
というモチーフで都市のそこここを彷徨している。そして、その生活は漂白する一休宗純のような禅や風狂
の側面を担っている。夏場はアロハ・シャツ、冬場はフレンチ・コートというインテリ・チンピラの身なり
が主である。
安西はその父親と同じく、言葉のはしばしにアフォリズムめいた句をまじえることで知られていた。
三好が言い足した。「相手の経験や内面があらわれるというか、伝えるというか」
「その相手の目と顔と、声と会話の内容で、そいつの度量の深さはだいたいわかる。無意味に目立ってる奴
とか、偏っているみっともない奴はバレる」
つぎに維摩が、自分の事を棚に上げて言った。「そういう人は自分を突きはなす感じがなくて、自分をか
わいがる印象がありますよね」
「気合いと余裕と両方が出てる人がいい」

二十

安西は元駅員という自分の父親を紹介した。ながいこと、大手鉄道駅の発券カウンターで熟練した腕をふ
るっていたが、今は引退しているという。経路の提示や予約、運賃の計上を、旅行客の前であざやかにおこ
ない、算盤を駆使し、周遊券など案内・発行を扱う手さばきは一流だったそうだ。
闊達な安西老人は、いつも着流し姿で過ごしており、下町の路地に古巣を持っていた。いっけん駅員の制
服を着ていた人には見えなかった。それよりも和装の似あうせいで落語家のように思えた。ところが老人の
談話を聞いてみると、なるほど手工芸の種の職人らしく感じるのだ。若者の眼からは無理もないことだが、
痩せているせいで、なんだか喋言る骸骨のように感ずる部分もある。しかし老人の、しっかり一語、一語を
確実におしだす明瞭な口調と、歳を感じさせぬ意気込みには圧倒される。維摩や湯藤をはじめとする若者は
その頼もしい相手に、よろこんで世代間の価値観の相違を表明した。ものの考え方、ものの感じ方を、彼ら
の独創になる声と黙とで語った。ラジカルで、アナーキーで、深遠な無限(エーン・ソーフ)の聖域がひろ
がった。
郊外のマンションでは感じない季節感が堪能できる下町の路地で、安西老人は、気軽に若者を招いた。赤
羽は人生の経験を綴った老人の眼や手に見入らざるをえなかった。世代間交流も含め、しじゅう歓談の機会
を設けることはその好々爺にとってこのうえない愉悦なのだった。そのぶん部屋で一人になると、彼の寂し
い部屋と椅子と同じように、老人本人も置き去りにされたような心持ちに至った。椅子に座して、じっと黙
想し、自分の人生を回顧するのが日課だった。下手をすると二、三時間も目を瞑ったままの老人は、過去を
思い出すことの苦痛に耐えるうち、死んだらどうなるんだろう、自分がなくなるというのは恐いものだ、い
やいや、ちっぽけな身体から、魂がより大きな世界に参入していくチャンスだからあっぱれなことだ、と、
こんな単純な選択肢の葛藤に追いやられた。それからじっさい、意識を失った、個性を失った状態が死なの
だという結論づけとなった。孤立した些少な部分としての個の意識は、これを包み込んだ、ふだんは知られ
ないより巨きな全体の意識に吸収されてゆく、それが死だ。けれども安西の父親という個体には、経験して
みなければこんな学説を納得することはできない。それでいて当の彼の身体を老いにつきものの病気が蝕ん
でいったが、それより、こんな甲斐のないシンプルな悩み事で精神が削がれていくのはもうたくさんだとい
う観念にさいなまれた。
ときに維摩は、すっかりこの安西の父を慕うようになった。下町の路地は、江戸の情趣の良質な残滓だっ
た。同時に、男性たちが憩いを実現する理想的なアジールだった。維摩は好んで、普段の路地に散歩してい
るその格好の良いおじいちゃんに会いに行った。老人の方も、好んでみずから信条を維摩たちに告示し、銭
湯に誘ったりした。
あるとき安西父子をめぐった男性たちの歓談に、維摩はいっぷう変わった贈り物を追加した。若者のいず
れか一人が「大きな古時計」をアカペラで唱したのだ。あの残酷な歌詞を、死にゆく老人に対するレクイエ
ムにするつもりだった。聞きながら安西の老人に、いわば悲観も楽観も超えた、新しい死生観の鋭さが加味
された。それは漱石がエッセイで書いた、実生活への幻滅(ディスイリュージョン)の契機でもあった。
ロマンチシズムを基調とした訓戒によって手わたされる安西老人の心理的アナーキズムに、維摩や赤羽な
ど若者は、ずいぶん救われた思いがしたものだった。

二一

ところで葛藤のすえ、赤羽の身分は硝子の引き戸をガラガラと開けて、安代の養子に戻ってしまった。
養父の家は瀟洒な、という形容が似合うような平屋の、トタン屋根の旧式の民家であり、全面的に色褪せ
た暗い和室が団欒の舞台だった。この戦前からあるような旧い家屋は、それこそ世界の際限を意味している
ようだった。いわば公認ということだから、赤羽と美しいしをりとの仲睦まじい生活に、安代が嘴を容れる
気遣いも無いわけだった。さしあたり死神の特権を放棄したように見えた。その代わり飲んだくれる毎日の
習慣をやめなかった。赤羽にとって、猫背の養父が陣取ってきたその木造の民家は、正しく異界、彼岸、あ
の世を意味する場所だといえた。
安代という永遠の確信犯の吐きだす言辞は全部、響きのよいたわごと(Nugae canorae)にすぎなかった。
この奇妙な、プライベートなサンクチュアリにおいて赤羽は、しをりを相手とした引用符つきの「私」を
栽培し、その成熟を待った。それが彼の定義する「私の個人主義」だったから。
かつての養父が、えらくなった赤羽のふところを目当てに金をたかりに来る。これは彼の今までの少ない
生涯にも、唯一といっていい未知さの襲撃だった。つづいて襲ってきた未知は、安代の実娘のしをりという
美だった。しをりの鋭い眼から温和な光を浴びると、赤羽の総体が射すくめられた。さらにいえば、金銭の
問題よりむしろ、赤羽はこの連れ子の方に心惹かれていく面があった。彼には生涯をいろどる美からの必然
の種に、彼じしんの自由意志や責任をもって日を当てたり水をやったりして育て、その結果としての花を他
者に伝え、できれば後世に遺していく義務があった。そこで彼が選択したのは、養父の籍に戻って、生活の
面倒をみる道だった。そして、しをりと結ばれた。電子メールの連絡を受け、三好も、この隠蔽されざる事
実を承認した。このようにして男二人は欲望と苦とで構成された無明の世界を自分で「問うこと」の句読点
を付けて、自分たちの情動に画期した。依然として彼らは確乎とした自分に属してはいなかったから。
しばらくのあいだ、彼は湿った匂いのする六畳間の畳の上で、雨樋を伝ってしたたって長く響く断罪の音
を聞いた。


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10300ディフィニティブ4高井一彰 E-mail 6/2-09:34
記事番号10299へのコメント


明暗
Light and Darkness


二二

上下関係ではなく対等に教え・習うという、おおらかな師弟関係というのがありうる。もとより、相手が
はじめから上か下の態度に出たら、こちらは力づくでも対等にしてやる、との大前提を用意している点で、
維摩と安西とは魂の共通項をそなえていたのである。
維摩は、だいぶん親しくなった安西から、寿司をおごってもらった。
演歌歌手に似ていると評判で、駄洒落を飛ばす店主が名物だったが、その日は主人が休みで、その代わり
に若い板前が握っていた。いかにも体育会系という男性で、顔を見知っている安西が、この店員の職人とし
ての経歴をあれこれ聞き出していた。
店員は都区内や各地方を含んだ修業時代にへめぐった店舗の体験を語っていた。
「それで、そのときのおすし屋さんには行ってないの?」
「あんまり、いいやめ方しなかったもんですから」若い店員は小さく笑ってこう答えた。
この言葉は維摩に一種、不思議な印象を及ぼした。
ひと息あって、安西は今度は維摩の方に向きなおって、赤羽の近況について話をふった。
「するときみは、赤羽の兄妹から、それぞれ立て続けに探偵の依頼を受けたんだ。奇妙な話だね」
「ええ、もう、わけがわかんないんですよ」苦笑した。「やれやれ、っていう心境ですよ」
「もう浮気調査のスペシャリストだね。で、冴ちゃんから頼まれた件の方はうまく行ったの?」
「三好さんを問いただしたんですけど・・・・・・」
「会ってきたんだ」
「そうです」
「どうだって?」
「浮気してるみたいですよ、どうやら。冴さんに隠れてこっそり逢瀬をかさねてるって、あっさり僕に打ち
明けたんですよ」
「相手はどういう女だって?」
「そこまでハッキリとは話してくれませんでしたが・・・・・・」
「浮気相手までは言わなかったんだ」
「ええ」
「冴さんには報告したの?」
「はい、報告しました。赤羽さんは、しをりさん・・・・・・という女性とつき合っているそうですね」
「それも変な話なんだよ。赤羽の姓から、さらに前の養父のところへ、養子に入ってしまったようだ」
「金の問題があるんですかね」
「むろん、そうだろう」
「それで冴さんも、ひどく落ち込んでいました。僕も気の毒だとは思いますが、しかし他人事ですから・・・・・
どうともしようがなくって。三好さんから浮気の告白をされたときには、その事情をどう説明しようか迷っ
たんですけど・・・・・・僕のような身分の奴から慰められても、却って不満でしょうし・・・・・・」
「冴ちゃんにしても、柴山くんにしても、よく周りで注意して見守っていてやらないと、下手すると破滅と
いうほどじゃないとしても、なにか厄介な、大変なことになっちゃうと思うよ」
「安西さんも、ただ瓢然と世間を眺めやっているだけじゃ、ないんですね」
「リビドーの樹海は知性の陽射しも、言葉の方位磁針もアテにならない。暗中模索で進んでいくしかないん
だ」
この唐突に吐かれた安西の文学的な言葉も、維摩に少なからず衝撃を与えた。

二三

Y字の、大きな「犬卒塔婆」のようなかたちの木が砂浜に刺さっている。その木のすぐ隣では、デート中
にもそぐわない話題を介した二人が、身体に息ぐるしい風を浴びていた。
「ごめんね、こんなお願いしちゃって・・・・・・どうにか算段つけてくれないかな。どうかな」
たどたどしい口ぶりで、冴が三好に切り出した。赤羽が安代としをりの親娘を養う羽目になった都合上、
赤羽はどうしても他の誰かに算段をつけるよう、ねだる必要があった。その標的は三好であった。そして赤
羽の代理人には、いきおい三好に近しい妹の冴が選ばれなければならなかった。
そのとき三好はというと、別れの直前の気まずい心境を抱えていた。束の間の冴との微妙な距離を意味し
ている「黙」をもって返答するほかなかった。
「ほら、うちのお兄ちゃんはお金の話したがらないでしょ?」
三好としては既に、弥生に貸してやっているので対処をしかねて、考えあぐねている。その顔つきには、
この期に及んでまたカネの話か!という軽い憤りと、赤羽の事情を知る同情がミックスされていた。むろん
彼自身の内心では、弥生を愛していることからの冴への気の重みも加わって、二重の内面の責めを負ってい
るはずだった。
「あたしの気持ちわかるでしょ? わかんない?」赤羽の使いである彼女が言った。
「わかるよ」多少ぶっきらぼうに言いながら三好は、冴にカネをわたすときが、別れの時だろう、と心に念
じていた。だから冴の呼吸のひとつひとつが苦痛に思えた。
他方で三好は、柴山に弥生をゆずったことへの後悔の宇宙がますます激しく膨張するのを感じていた。弥
生がパラノイアックな柴山の圧制の下、度重なる流産のショックで不幸な生活を送っている、この知識が三
好の心臓を高鳴らせた。自責の念は彼を八つ裂きというまでに傷つけた。痛々しい過渡期だった。

二四

睡眠を充分にとっていない者、贅肉の附いている者は創造的にはなれない、という例の「安西さん節」の
標語をありがたくたまわったあと、安西と維摩の話は左のような話題に移った。
「そういえば、おれは昔みたので、強烈に覚えている夢がある」
「どういう夢ですか?」
この稀有なホト(女陰)グラフィーの作者は『「老人椅子」の夢』を物語りはじめた。
「ただっ広い地下室みたいな冷たい感じの、コンクリート打ちっぱなしの大広間がある。その中央に、やせ
細って針金に肉付けだけしたような老人の形をした椅子がある。老人の顔は固まっていて表情がよく分から
ず、上半身が背もたれになっていて、下半身が脚、そして両腕が肘掛けだ。声がして、これは「老人椅子」
だ、という説明を声だけで受けたんだ。それで実験台のつもりで、おっかなびっくり老人椅子に座ってみた
っていう夢」
「恐かったでしょうね」
「そりゃあな」
「老人椅子の夢ですか」
「考えようによっちゃあ、おれたちの現世だって悪夢の中に住んでいるようなもんだけどな」
という感想は、いかにも周辺の若者たちが評する「安西さん節」の情趣を湛える言葉だった。
「それより、三好さんと赤羽さんのいる会社・・・・・・」
「なんだね?」
「悪い経営のツケが回ってきて、もうかなり危ない状態だって言ってますね」
「ほんとか」安西は、ちょっと無感動な口調だった。
「いま企業のトップが不正を続けていた責任をとっている段階で、しばらくはそういう処理でゴタゴタして
るみたいですよ。だから恋愛も金銭の問題も、今後のカイシャの先ゆき次第ですよ」
「おれにはサラリーマンの生活は分かんないなあ」それは彼の本音中の本音だった。安西の意識の境域には
「すべて経験は実験でなければならない」というお得意のテーゼが躍っていた。けれども逆に、不本意にも
彼の識閾において近来、それほど経験を覆されたという事は、げんになかった。

二五

維摩は柴山の部屋に来ている。柴山のマンションは都市中心部にある。現代らしく無個性な住まいだ。
最初の雑談では、表面上の落ち着いた話しぶりとは裏腹に、すでに兄の狂気は頂点に向かっているようだ
った。柴山にとっての独自の文脈では導入となる雑談の後、風向きが変わることを予感した維摩に、彼は思
わぬひと言を告げた。
「どうも弥生が浮気してるらしい」
「だれとですか」
柴山は突然、激昂して厳しく叫んだ。
「てめえふざけてんのか、殺すぞ! おまえとだよ!」
維摩が唖然とする間もなく、このモノマニアの兄から平手打ちを食らった。
柴山はすぐさま平常の面持ちに戻り、そのまま平然と話し始めた。
「実は頼みがあるんだ。言いにくいことなんだがな」
維摩はいくぶんかヤケクソな調子になって挑みかかる。
「言いにくくたって、おれならいいわけでしょう?」
「うん、おれはおまえを信用しているから話すよ。しかし驚くなよ」
「・・・・・・」
次の句を待つしかない弟は、静かだが鬼気せまる柴山の形相に、ひたすら危惧を感ずる。
「驚いちゃいけないぜ。おまえに弥生を試してもらいたいんだ」
「どうやって?」
「おまえと弥生が二人で一晩、泊りがけでどこかへ行ってきてくれればいいんだ」
「そんな、馬鹿らしい。馬鹿らしいよ」
「何が馬鹿らしい」
維摩は吐き捨てるごとくに言い切った。「くだらない。呆れた話だ」維摩は疑心暗鬼が昂じたこの兄に、
もはや哀れみの眼を送る猶予も無かった。柴山は精神錯乱の前兆を思わせる境地を語りつづけた。
「じゃ頼まねえよ。その代わりおれは、生涯おまえを疑うよ」
「そりゃ困る」
「困るならおれの頼む通りやってくれよ、ふざけてるわけじゃないんだ」
「・・・・・・」すこしアホみたいに口を開けたまま硬くなった維摩の顔は、畏怖と軽蔑の表情がない混ぜになっ
ている。
「いいか、おれはおまえを信用してるんだ。けれども弥生を疑っている。しかも疑われた不倫の相手は・・・・・
不幸にしておまえだ」
「ワケわかんねえよ!なんでおれなんだよ!」兄の奇怪な観念の序破急に追いつけず、維摩は敢えて血脈の
「近さ」を無視した姿勢を決め込んだ。
しかし説得的な口調で、柴山は一方的に語り続けた。
「ただし、それはおまえにとって不幸だというんで、おれにはかえって幸いになるかもしれない。というの
は、おれはおまえのことを信頼してるからだ」
「ほんとに信頼してんのかよ」
「おれはな、おまえの言うことだったら信じられるし、小さい頃からな、おまえになら何だって打ち明けら
れるからだ」
無言で返すしかない維摩に、彼は懇願なのか強圧なのかわからぬ言葉で畳みかけた。
「だから頼むんだ」
維摩は結局、適当な生返事をすることにした。「わかったよ」と、まともにとりあわずに、退出しようと
して逃げ出すが、服の袖を思い切りつかまれて引き戻された。
そのまま、維摩は思うさま、兄から殴る蹴るの乱暴をされた。

二六

三好は、催促みたいで悪いなと思いつつも、弥生に会う口実が出来たと思って出かけた。密やかな逢瀬。
夏の名残の川にクラゲが浮いている。河口から逆流してきた水に押されて漂ってきているのだ。クラゲの漂
流を観察するともなくうち眺めながら、男女は川の欄干に佇んでいる。
三好の砕かれた心中を、エロスと厭世観の破片が渦巻いた。三角関係の塊は、彼の人生において不定形な
流れとなって溶解し始めた。いままで予定調和のなかで完結すべく原理的に男だけの世界(男性性の共同体
)が、やすらかに保存されていたわけだったが、冴と弥生の姿が登場するとともに、彼の内部にある予測不
能な人間の根源的な衝動、とりわけ突発性や独創性の温床となる性愛や逃避(世界苦、ヴェルトシュメルツ
)という生の欲動(Trieb)を彼女らの意思が呼び覚ましたために、それは完全に掻き乱された。人生の未完成
さをしめす尺度として彼が軽視していた夢、深層意識といった要素が、夢オチなどではなく純粋な強みをと
もなって現実の生活に突撃をかけたのは心外だった。
自分でも予期しなかったコトバが過剰に横溢しだした。思考機会均等法の制定が欲しいほど、無意味なセ
リフが口をついて出た。彼はおのれの行為にも反応にも確実度を与えない性格の冗長性(リダンダンシー)
をうらんだ。彼は秋だというのに、川だというのに浮いているクラゲに共感した。

二七

都心のホールではテクノの音楽を中心とするイベントが開催されていた。冴はケン・イシイや電気グルー
ヴの音楽を、地球上でも最高水準の作品と疑わなかった。
冴はクラブDJが宰領するフロアで群衆とともに、ひとしきり踊った。その後、休憩室となるカウンター
にて、悲嘆に暮れている冴を慰めるため、約束どおり維摩がそこに訪れた。
維摩は落ち込んでいる冴を気の毒に思いつつも、基本的に彼らにふりかかる一切の出来事を他人事として
軽く考えていた。もともと考えが浅く、ひじょうに鈍感な維摩は、柴山や冴の破滅にいっかな同情を持たな
いでいる。
「じゃあ、おカネの問題は収拾がつきましたか?」
「うん、なんとか」
「でも、まだ三好さんのことが残ってますね」
「うん・・・・・・迷ってる。不安なのよ、俊也はどこに行こうとしてるのかな」
三好は世界の誰かれに敵意を持ちつつある。朋輩から恋人から自分に至るまでの関係の総てが敵となりか
けていた。率先して魂の実生活を退く覚悟の持ち主だった。

二八

秋の彼岸の草庵。ここも先段と同様、類例のないアーティストで、プロデューサーであった小堀遠州の特
質で統一された庭園が見える。もっとも赤羽自身は、岡倉天心の『茶の本』で賛美とともに言及されるこの
偉大な江戸初期の大名を知らない。
赤羽は美しい着物を完璧に着こなした、しをりを見た。彼女は未来の閉ざされた無為の中で祈ることので
きる徳や、存在感をたたえて静かに座している。この親しい他者の姿は、なるほど驚嘆にあたいした。
赤羽は鬱屈した自分をまぎらわせるために、「男は、武器を持たずに素手で風上に立つ必要がある」とい
う景気のいい独白を口にした。そのあとに再び、永久にまで届くほどの沈黙が尾を引いた。
彼らの言語で示される会話には、その裏に通底している永遠な非言語の交流があった。そのボードレール
流の「照応」(コレスポンダンス)を言葉の機微に混入するのは、脆弱なものながら彼らの無限の意思だっ
た。真実な意思が会話の「声」と「黙」のなかに低徊する様子は、まるで深い湖の底かどこかで、生の隠微
=淫靡な泉が吹き出しているようだった。赤羽は、この美しい地獄の景物に、まんべんなく均等に浮遊して
いる注意力の視点を投げた。このざわめいた実存の沈黙、聴こえない実生活の喧騒の充満のまえには、安代
の背中を円めた歩き方、どんよりと澱んだ上眼づかいの存在感におびやかされる暇もなかった。
自分だけの正義をともなって上げた赤羽の視線の先の床の間には、すくなからず彼には意外だったが鮮烈
な両界曼荼羅が掛かっていた。ふたつの曼荼羅は安代の暗い仮象を追いやるに足る性根の転回を彼にあたえ
た。

二九

三好と赤羽の会社は自主廃業という結果に至った。彼らが働いていた支店の正面前の歩道では、従業員ど
もが記念撮影をしている。このぶざまな風景がテレビのニュースにも流れた。
散歩していた維摩は、たまたま通りかかったその社屋の玄関に、倒産・営業停止を告知する貼り紙を認め
た。つぶれた会社の建物に貼られた、このさほど目立たない貼り紙は三好と赤羽の失業という急展開を告げ
ていた。これを黙って無表情で見つめる維摩の胸中を、彼らもこれから大変だなあくらいの気持ちがかすめ
た。むしろ、柴山から弥生との関係を疑われている事を知った彼は正直、それどころではなかったのだ。い
かに意外な起伏つづきでも、嫂との仲を試すために、泊りがけでどこかに行ってこいと命じられるに至って
は、もう兄の狂気を勝手に絶頂に登らせておくことにしようと決意するしかなかった。
次にまた、維摩の聴覚に、安西老人が入院したという重大な風評が飛び込んできた。
もちろん見舞いに向かったが、あんなに丈夫そうだった老人が、しわくちゃな長躯を横たえて低く喘いで
いる姿はがっかりさせた。「どういう死に方がしたいですか」と維摩はきいた。「若いころから、こういう
死に方だけは避けたいと感じてきた」と老人は、元気のない訓示を与えた。私たちは、いたってうぬぼれが
強いので、世界中で有名になり金持ちになって、自分の死後も、後世の人にも世界中のみんなに名前を知ら
れたいと思っている。でも私たちは同じくらいボンクラなので、私たちをとりまく仲間のせいぜい五、六人
の連中から褒められさえすれば、ごく簡単に有頂天になる。私はどちらの陥穽にも陥らないように努めて我
慢をしてきた。それは私たちの歩く岐路にセットされた罠だ。だから、そういう卑屈な考えを持ったままで
は死なない自信はある。それで私は、もう悔いのないようさっぱり死ねることだけを望んでいる。
死期も間近い老人は、そのように言った。維摩はめずらしく殊勝な気分に変じた。おれは若さの生から老
いの生へとすんなりシフトして、その経路を歩める準備はできているだろうかと自問をした。生とも死とも
いえない現世=地獄の(インフェルノグラフィックな)時点で生を自覚し、そのフェイズの途次に立って若
さと老いを自覚することなど可能なのか?


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10301ディフィニティブ5高井一彰 E-mail 6/2-09:41
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そば屋
Soba Restaurant


三十

赤羽は安代の家から追い出され、非情な秋風に吹かれることになった。
すっかり沈みきった、また憔悴しきった赤羽は、トボトボと出てくると日がな一日、当て途なく街路を歩
きまわった。むしろ、そんな打ちひしがれた段階になって、自分がある種の世界観のスケールの広がりを獲
得できたような気もした。そのまま連想を働かせ、彼が学生の頃、属していた自然科学のクラブ活動で作っ
ていた広報の壁新聞を思い出した。「ハッブル宇宙望遠鏡」による宇宙のほぼ涯てという範囲の星雲をとら
えた画像。着色処理がなされていたが、きらめく星雲の柱は光彩陸離という形容がぴったりなロマンチシズ
ムを謳歌していた。それこそが、彼が立ち至ったこの物語のシークェンスにふさわしい気がした。そこに欠
けていたのは、しをりの面影だけだった。定義されざる倫理という視えない宇宙線のシャワーが「赤羽智文
」という固有名詞をたずさえた彼の実生活に、たえず降りそそいだ。
いま簡単のために、魂から発する眼つき、表情、肉声、会話の再−創造を総合して言霊とみなせば、日本
語という言霊の幸う国において、あきらかに物事の極端と適度の両方を認識できる方便であった赤羽の言霊
は、いまやあらゆる運命の異質さ、多様さ、複雑さを表現するための実力を奪われていった。
おれは蛇と戦った英雄なのだと自分に言い聞かせるしかなかった。おまけにひるがえって顧慮すれば、そ
こには自分がいったん煩悩の蛇に転化するという皮肉な経過があった。
「世界を更新し、死を超克すべき英雄とは、世界を創造する力の擬人化である。その力は、内向して自分じ
しんを孵化し、蛇となって自分の卵に巻きつき、その毒牙をもって生を威かし、死の中に引き入れ、我を克
服して、夜からふたたび生命を産出していく」
『リビドーの変容の象徴』に書いてあるユングのシナリオどおりだった。

三一

維摩は安西老人の住まっている長屋に近い下町の路地に向かった。伝令役としてせわしく立ちまわる彼だ
が、今度は弥生と対面するのだ。
弥生は、だいたい季節を問わずサマー・セーターを着ていて、ジーンズをはいている。現実を批評する鋭
い眉と、澄んだ水面のごとき瞳を擁した、どこか醒めたような眼が、うまく共存していた。外見にかかわら
ず、彼女の挙止は、いつでも控えめな感じで大和撫子の印象をもたらした。時折、豊かな頬が赤ん坊のよう
な感じを思わせることもあった。さらさらの漆黒の長い髪が特に、男女いずれにも人気があった。
まず、維摩は柴山の妻に、せんだって面会した際の報告をした。
「そんなこと言われたの?」
「いやー、もちろん本気には取ってませんけど、困った兄貴ですよ」
「いい歳して、馬鹿みたいなこと言い出して・・・・・・」
「いやいや、あんなのにふりまわされて、弥生さんこそ、迷惑でしょう」
「ごめんね」弥生の反応は案外、さっぱりしていた。
「やっぱり、あんな奴とはさっさと別れて、ちゃんと愛してくれる人、探した方がいいですよ」
「さがしてる・・・・・・つもりだけどね」
「あ、さがしてるんですか」
維摩と弥生とは、あまり直接に対話する機会がないだけあって、やっぱり柴山から離れた方がいい、との
この場での結論は早かった。弥生は独自に、三好の方に行った方がいいという決断を温めていた。富士山や
夜桜のように美しい弥生は、透き通った肌、清らかな流れをもつ髪を世間にさらしながら、この過去を包み
未来をひらく、ニコラウス・クザーヌス卿の理論のような意識の展開と含蓄の、再現と再創造の運動とを、
繰り返し交互に心中でもてあそんでいた。

三二

失職と恋愛の不安にまつわる怯えのまっただなかにいる三好は、散歩するうちに例の電器店の前に来た。
店頭のテレビモニタは、ことごとくザーッという砂嵐が続いている。
悲痛な深淵に潜伏せざるを得ない三好の苦悩が、しだいに露骨に彼の視界そのものを覆いだした。
耐え切れず頭上の空を仰いだが、悲痛な曇天は彼を強くつきはなした。墨汁を一面に垂らした天蓋に斜め
に女陰のような割れめがのぞいたその空の色は、彼じしんの精神的な荒廃をそっくり映しだしたも同然だっ
た。これほど、実生活において三好は、臨機応変というスタンスをわきまえずに生きてきた。
名状しがたい思いにかられて、我を忘れて駆け出した三好は、大型駐車場の出入口付近の歩道まで来て、
思わずしびれるように立ち止まった。駐車場に設けた高い電光掲示板の「空」の字が、おおきく眼に飛び込
んできたからである。
彼の個有性の真実さと純粋さに応じて、現在と名づけられる時間、死にも生きもしない死後・未生の時間
が顕現した。三界万霊。その遍在する青い時間の深淵のただ中で、すくなくとも不安の受容者である彼は、
いつか陶酔する恋愛の仏として成仏(解脱)するはずだった。

三三

老人の最期は雨の日だった。死期を悟った安西の父親は、病院で死ぬことを嫌って、川べりに捨てられた
小舟のところに来た。きわめて憂うつな色あいをしめした空のなかに、その川はあった。遍在する神、死、
無が埋めつくした衆生への哀憐のような雲から、永遠の徒労のようにシトシトと降りかかる憂いの雨。
旧い舟の底は、ところどころに穴が開いている。淡々とした動作で、老人は底のぬけたボロ舟に寝そべっ
た。ゴザをふた代わり、あるいはふとん代わりにかぶる。
疎に生えている中洲の葦原に、雨がふりしきる。そうして、いっそう、孤独な川の景色は冷たい青に染め
られていった。彼は瞑目した。彼は眠った。
水かさが増え、舟の中の老人を沈めてゆく。そのうち、その棺桶は不条理な水の流れによってだんだん押
し流されていった。
老人の棺は生と死、どちらとも言語化できない不生不滅の次元におもむいた。
汎神論のごとく遍在した物自体の空を、老人の身体の自滅という方便の雨が分節する。
安西老人の表現を伝える言霊は、人間と思想でできあがった生の現象をこわし、創り、遺し、死んだ。

三四

「捨てろ」そんな言葉が幻聴のように鳴っている。
何を捨てろというのか目的語の見当が附かないが、ひっきりなしにその「捨てろ」が赤羽の脳裏を飛び交
った。赤羽の知識にあるのは空也にふれた一つの挿話だった。
捨てろ、逸話によれば、念仏はどのように申すべきかと問われて空也はこう答え、それ以上なにも言わな
かったそうである。
赤羽は各駅停車のみ停まる下町の小駅の短いプラットフォームにたたずんでいた。電車が来ると、果ての
ない深淵に思わずフラッと吸い込まれるように、彼は縁の方向に一歩踏み出した。横にいる人がハッと気付
き、飛び込む寸前で赤羽の肩を抱えて、ついで両腕で彼の上半身をおさえホームにひき戻した。次の瞬間に
も通過電車が滑り込んでくる。その隣にいた親切な人は「あんた、だめだよ、そんな・・・・・・そんなこと考え
ちゃ」と息を荒げながら言った。

三五

三好は「不空庵」という蕎麦屋で千五百円の「海鮮にぎわいそば」というメニューを食べるのが好きだっ
た。冷たいそばにエビ、ホタテ、タコ、ホッキ貝など三好のお気に入りの刺し身が載っており、なおかつデ
ザートのあんみつ付きという一品だからだった。それのみか、アルバイトのお嬢さんがたがどれもこれも美
人で、彼女らを見るのもひそかな楽しみだった。
だが今日は、赤羽を連れてきても、ざるそばを注文するぐらいしかできない。赤羽の方はせめてセットに
しようと、うどんと釜飯の組み合わせにしていた。
人生の道のりに遭難した者どうしの会話が始まった。
「それで「安代」の家はどうなったんだ?」
「半分ポイッと捨てられるように追い出された」
「そうか・・・・・・予想していたこととはいえ、な・・・・・・。でも結果としては、よかったじゃないか」
「養父にとって金ヅルでなくなったおれには、もう存在理由なんか完全に消えたも同じだ。おれ自身、養子
になっちまえばカネの収支で、うるさく思い煩わされることもなくなる、と打算を抱いたのがまずかった」
「カネ? いや、おまえは要するに、しをりさんという女性を守りたかったわけだろう。つまりさ、単なる後
家の連れ子でなくって、恋人としてだな」
「それもあるが」
「はかないもんだな」
「お互いな」
「おれは弥生のところに戻ろうと思う」
ただでさえ停滞している時間の流れに、いっそう痛ましい言葉の澱が沈んでいた。
「冴はどうなるんだ」
「申し訳ない」
「申し訳ないで済むか」
「済まないと思っている」
「冴には話したのか?」
「だいたい話した」
この時間帯、不空庵の客はこの二人だけだった。
「わかった。おれは・・・・・・おまえを赦すよ」
「ありがたい。その一言だけでも、おれにとっては大きな力になる」
「おまえの言動や何やらを見ていて、うすうす感づいていたから。おれたちは二人ともダメ野郎だけど、も
うお互いに過去に束縛されるのはやめよう」
「その代わり、おれたちの未来はあらかじめ閉ざされている」
「わかってる。せいぜい今をここで乗り切るために協力し合っていくほかないだろう」
それから「結束」感の無意識な流露として、彼らは男ふたりで釜めしをよそりあった。赤羽がしゃもじで
三好の椀に盛りつける様子は、なかば儀式的だった。こんなささやかな人生観の幕営から情念は、ときの声
を上げるのだ。

三六

彼らの住む町では、市民の足としてバスの便が充実している。乗っていてバスの前方に、同じ路線の前の
便の後ろ姿が見えるほどだった。市街の習慣にのっとり、バスを降りる若い女性客が、乗り賃を箱に投入し
ながら、口々に運転手に向かって「ありがとう」と言ってゆく。しをりも、その乗降客のひとりであり、停
留所に降り立った。彼女が向かったのは赤羽の実家だった。赤羽の実家は壁のくすんだ公営の集団住宅だっ
た。安代を捨てて、赤羽の許に、しをりが来てくれたわけだ。これから傷を抱えつつも二人、穏やかな生活
に移行することになったのだ。彼の感激は当然、ひとかたならぬものがあった。
ついでに、他界する数週間まえの安西老人からもらった手紙を読んだ。死後は迷信で、心理現象は霊魂の
不死にあてはめてもいけないし、物質に還元してしまってもいけないと記されていた。「あなたふと 六波羅
蜜の花曇り」という句が添えてあった。
日を措かず老人の惨めな死体が見つかったと報じられた。

三七

安西が維摩に懸念の事がらを聞いた。
「大丈夫か、赤羽の様子は?」
「倒産してひと月後ぐらいに僕がこのまえ会ったときは、わりと元気だったんです、ですけど・・・・・・」
「どうかしたのか」
「駅のホームで飛び込み自殺しようとして、親切な男性に止めてもらったそうです。冴さんや、知ってる人
に聞いた話では、電車が来て、思わずフッと吸い込まれるように飛び込み自殺しかけるところを、隣にいる
人が寸前にハッと気付いて、肩を抑えて止めてくれたんですって」
維摩は「遠退いて狭霧を分かつ都かな」という自作の俳句を、安西の父への手向けに贈った。
この夜ふたたび、安西は老人椅子の面影を、おだやかな眠りのうちに捕えた。
彼が高校生の時に見たという不気味な夢。地下室らしいがらんどうの、空虚で冷たい印象を与える抽象的
な広間。老人の形をした椅子が中央に居る。いうまでもなく、突き出した老人の両腕が肘掛け、老人の胴体
部が背もたれになっているわけだ。しかし肉体そのままというよりは、ミイラかジャコメッティの、針金の
ような彫像に似ている。
そのうち夢の主人公たる安西が、おずおずと、恐いもの見たさの感情を抱えながら近寄り、座り心地を試
すように、ゆっくりと腰をかける。目覚めてから、彼は情動の不安をあらわすこの「夢」の意味を解こうと
して、しばらく頚をひねってみたが、思い当たるふしがなかった。
安西は好奇心から、ためしに柴山にまつわったエピソードをほぐしてみた。柴山が、現在は妻の貞操を、
具体的には彼の弟(維摩)と妻との仲を疑っている点、したがって、三好とは友情が薄らいでいる気まずい
状態だ、という点がポイントだろう。巻き添えを食った維摩こそいい迷惑だろうが、まず破滅する命運に近
いのは三好か柴山であって、とくに三好の動き方いかんによって柴山のダメージは甚大だろう。安西は、三
好と柴山の膠着状態を、このように見極めた。

三八

無意識に予感し、その予感と不安を共存させてきた柴山との直接対決の日が来た。幾許か自暴自棄になっ
た三好は、敵地に飛び込んでいった。単身あらわれた彼を柴山が迎えた。
三好は平伏して開口一番、こう言った。
「たのむ。弥生を返してくれないか」
「・・・・・・」
柴山は、むっつりと構えている。三好は、ずっと平伏の姿をつづけている。
「こんなこと、いまさら言える立場じゃないのは判ってる」
「・・・・・・」
「わかってる、柴山にも、弥生を幸せにする義務があるだろう」
「それを怠っているとでも?」
「そんなことは言わない。でも、おれだってその義務を捨てたわけじゃない」
「弥生を愛してるんだな」
「そうだ」
「そういや、もともとは弥生は、おまえのフィアンセだったな」
と、わざわざ承知の内容を言明し、柴山は三好を当惑させた。
「おれがまちがってた。このとおりだ」
「つまらない芝居はやめろ。いいから弥生を連れて行け」
「許してくれるのか」
「それは弥生が決めることだ。彼女の気持ちしだいだ」
三好は耐え切れず涙をこぼした。
一方、もはや柴山にとっては、今の話題とは無縁な、異界の景色が脳裏を占めているようだった。
いってみれば柴山の存在は、だれも音なう者のない場末の廃屋のようなものだったのだ。

三九

赤羽は公営の団地の下で、アスファルトを竹ボウキで掃いていた。猫背の彼の失意の姿は、迷いの極北の
場所にありながら、そこから、かつて彼が憧憬をいだいていた「穏やかな生活」というテーマを味わってい
た。
友達の三好を案じながら、やはり赤羽は、いまでは一心同体となった、暗い森の一点、小道に差しこむ光
である女性の存在をありがたく思った。
赤羽は漱石の随筆を読み返してみた。「自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である
」というメッセージが彼の内部を深く刺激した。
また、彼の貧しい連想は「夢の終わり」と題されたロバート・フランクの写真を思い出した。むかし横浜
美術館で「ムーヴィング・アウト」という展覧会があったとき感銘を得た作品だった。そこから彼の念頭は
夢の終わり、という語に宰領されないはずがなかった。
その日、維摩が団地に来て、赤羽はその妹と同様、維摩から慰められる立場になった。
「おれはもうカネばかりじゃない、生きていく気力もなくなった」
「赤羽さん、僕の就職の世話してくれたじゃないですか。今すぐ恩返しというわけにいきませんが、いつか
こんな僕にでも力になれる時もあるでしょう。でもさしあたりは、これからどうするんですか?」
「おれには何も言う事はない。まあ、しをりを支えながら何とかやっていくさ。おれの周りも心配なんだ、
冴も、柴山も、三好も」
「僕の兄貴は、もともと考えが浅はかな上に偏執狂だから手が付けられないし、寄り付けないんです」
「それで、その二人きりで外泊しろっていうのには従ったの?」
「無事にやり過ごしました、なんとか。ボコボコに殴られましたけどね、その代わり」
さながらリビドーの樹海を抜けて、(ハイデガーの常套の言いまわしをつかえば)木こりの通うようなそ
ま道の中途に立ち止まり、深呼吸しているような二人だった。


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10302ディフィニティブ6高井一彰 E-mail 6/2-09:48
記事番号10301へのコメント



定義されざる倫理
Ethica Undefinitive


四十

自分の部屋に帰る住人が、マンション下の舗装道路に倒れている柴山を見つけた。その人はさいしょ遠め
から、酔っ払いか通風の浮浪者がつっ伏しているとでも感じたらしいが、やがて、その薄汚れた胴体の主が
同じマンションに住んでいる根暗な男とわかって、とてつもなく驚愕した。
柴山の自宅から見つかった遺書には「自分の人生に関する筋道のとおった説だけを吐くこと」を宣言して
あった。おおよそ十八才、高校を卒業する程度の年齢までは、柴山は個性と関係なしの子供だった。それ以
後を勤務のほか読書や昼寝、散歩や自慰による無為についやし、その期間を棒にふったと自覚していた。そ
れより前、中学生の頃に、早熟な少年は、家庭や学校教育、町の諸集団からの抑圧を不器用に論理化した。
家族を倒すという課題は、まず身近で攻め易い自分の両親を倒すという目標へ向かった。それだから彼は父
母に包丁で切りつけて軽傷を負わせた。たいした沙汰にはならずに済んだ。
たが、結局は子供の頭で解消しうる問題ではないと覚った。この事件があって以来、自己肯定というやり
方でなしに、自己という対象を否定する弁証法、世界に対する攻撃と逃避との衝動(ちなみに性欲の衝動は
人知れず弟の維摩に分担されているらしい)を儀式化する、現実的な想像力の利用の方法を編みだすのに苦
心した、と柴山は書いていた。公務員として実地の労働をつづけるとともに、そのあいまの高度な形而上学
の導入をはかる彼は、後者の方がしだいに、悪魔と同起源の神、現実の消息をなみする非現実という太陽の
紅炎(プロミネンス)となって、この逆説が彼の生まれながらの属性である「徳」と「善」の精神を呑みつ
くすのにまかせるほかなかった。思惟の道草のあげく気合いと余裕といった品をうしなった彼は、虚妄か、
さもなくば夢か、という循環する潜在的な問いの途上に、毅然として立った。

四一

漱石ゆかりの雑司が谷墓地では、安西を筆頭に赤羽、維摩の三人がそろって安西老人の墓を詣でている。
墓前に供えられたのは、真偽を写しとる手段による情動への賦活を祈った、安西の最新の写真集『写真/偽
』。
安西が席を外しているあいだに、維摩は、元の嫂を三好が奪い返したという噂に触れた。
「三好さんといえば、ヤケになって、元の弥生さんのところに戻りたいって言ってたんですって?」
赤羽が詳しく顛末を知っていた。
「ああ。覚悟を決めて柴山のところに単身、おもむいたらしい。『弥生をくれ』っていう旨を打ち明けたっ
て。手をついて正直に」
「ものすごい度胸が要ったでしょうね」
「そう、ほとんど柴山に殺されかねない感じで、もう心底から緊張した時間を過ごしたと言ってた。そんで
早々にその場を退散してきたって」
「覚悟しているとはいっても、うちの兄の性格だから・・・・・・そんなに簡単に弥生さんを譲るってことになる
でしょうか」
「そうだねぇ・・・・・・」赤羽は曖昧に受け答えた。
「そのあと、どうなったんですか」
「もちろん絶交を言いわたされたみたいだけど・・・・・・」
「三好さんは、なんて言ってました?」
「まあ刺されたりしなかっただけ、まだましだった・・・・・・と思い直してるみたいだよ」
「ほんとですね。弥生さんにしてみれば、そりゃ、やっぱり三好さんの方が幸せでしょう。でも冴さんがか
わいそうですね、そうすると・・・・・・」
そろそろ総括したいという気になった維摩が言った。「でもこの場合、ぶっちゃけた話、だれの責任にな
るんですかね」
赤羽は萎縮して応えられなかった。代わりに安西が口をはさんだ。
「風鈴みたいなもんだろう」
「風鈴?」確かにそれはとっぴな返事だった。
「風が鳴らすのか、それとも鈴が鳴るのか・・・・・・どっちにしても真実なんだろう、たぶん」
このときの二人の結論としては、冴の立場の救済が最優先ということになろう。

四二

その後、赤羽は、息せき切って全速力で駆けつけた三好から、柴山の飛び降り自殺の報を告げられた。
三好は、ひどく興奮して語った。
「おれは現場を見てきたが、黒ずんでいて、いっけんヒトの死体だとは気付かないほどだった」
「遺書は?」
「もう警察の人間にわたしちゃったけど、すこしだけ覗かせてもらった」
「遺書の内容は?」
三好は後悔し、うな垂れながら言った。「弥生のことは書いてなかった・・・・・・。文面にあったのは、まえ
に柴山の叔父が、父親の財産を騙し取ったことがあって、それ以来モメてた、という話だけだ」
注意しておくと、この叔父とあるのは安西の事ではなく、柴山の母方の叔父である。対座する二人のあい
だを流れる沈黙が、柴山の自死の原因は金銭トラブルなどではないだろう、という感銘を意味していた。ま
あ経済関係も含めるとして、ながねん募っていた人間への疑いの心が、ついに爆発したという事か、と赤羽
はひとり考えた。
赤羽はそれから、安西に会ってその件を報じた。
安西は赤羽に対し、総評するように話した。「きみも難しい運命のもとにさらされてるだろうが、できれ
ば俊也くんの相談に乗ってやってくれよ」
他方、三好は維摩に接見して心のうちを話した。
「おれはこの報いを恐れている。弥生を奪い返した報いを」
「僕も相談相手になりますよ、及ばずながら」
そう言うと、我慢していた感情が堰を破って、さすがの維摩も静かに泣き始めた。

四三

悲報のあと、コトバにならない心情をわかちあうため、維摩を軸にして三好と赤羽は、慣習にもとづいて
彼らの待ち合わせ場所に帰されたあの電器店の店頭にいた。無明の闇の幕あいに葬られた柴山を悼んで、男
たちは一様に、沈鬱な表情で黙りこくっていた。店頭のショーウィンドーに、展示されているテレビモニタ
がいくつかある。ズラリ並んだモニタ画面は電源が消えているが、そのうちのひとつは、放送後のいわゆる
砂嵐・・・・・・白黒の細かい微粒子が飛び交っている画面をしばらく見せている。
だが、見るともなしに赤羽がそれを覗き込んでいると、突然に砂嵐の画面の中央に横向きの鍵の陰影があ
らわれ、威嚇的に立体的にせりあがり、次第に非在の鍵の輪郭がくっきりと浮きあがってきた。「カギの夢
」の光景に変わる。気取って三好がカギの陰影(レリーフ・オブ・キー)と呼んでいた物の魔力が彼を圧倒
する、さながら金縛りのごとくである。天災と同じように、悪夢も忘れたころにやってくる。
ふと、赤羽は魂の熱狂から通常の自我の虚しさに帰った。そしてかたわらの三好に気づいた。悲劇をちか
らわざで乗り越えて愛情を成就させたばかりの三好の意識は、いまでは多少なりともカギの悪夢とは無縁な
ようにみえた。そういう平穏そうな三好のことが、ほんのちょっと妬ましかった。
赤羽の身辺には、現世=地獄の裸形性(Infernography)にもとづいたポルノグラフィの要素だけが残ってい
た。彼は、いっそ辺獄という魂の難民を受けつけるオフィスに出向きたかった。だが遊走している魂の管理
局など、そこらへんにはありそうもなかった。

四四

柴山の部屋は、物がやたらと散乱しており惨澹たるありさまだった。柴山の部屋には先祖の肖像を額にし
て飾ってある他に、ジョアン・ミロの絵の複製もあった。抽象的な鳥、女、蜘蛛などや、あちこちに生命力
をシンボリックにしめす線が伸びる、星座のシリーズのひとつだった。柴山のふるまいはミロの絵画にこめ
られたプリミティブな童心からは程遠かった。もっと若いころの柴山は、二十世紀芸術の決定的な神髄たる
モダニズムが好きだった。
維摩は勇気ある弥生を従えて入ってきた。弥生は、さいぜん花屋で買ってきた、柴山に献じる花を携えて
いる。維摩は舌打ちせんばかりに、シニカルな心持ちを抱えていた。ダメな奴ばっかり出てきて、次々に自
殺したり発狂したりしていく、この筋書きに乾杯してやりたいくらいの心境にあった。
二人きりで外泊しろという理不尽な命令はやり過ごしていたものの、ここへ来て柴山の自殺を受けて、弥
生への憐憫の情しきりという気持ちになってきた維摩。彼は赤羽や三好への同情をも胸にしまいつつ、懸命
に喪服の嫂を慰めだした。ただし、あくまでも恋愛感情とは無縁である。
「弥生さん、お察しします」
「・・・・・・」
「あんなメチャクチャな命令のことはどうでもいいとして・・・・・・、あの現実逃避のさなかに埋もれて死んだ
うちの兄は、ずっと弥生さんの気持ちが理解できなかったんですから、こうなるのも無理はないです」
弥生は花瓶に花を供えた。
「僕は知ってのとおり未熟な男ですから、三好さんや赤羽さんを本式に慰めたり、励ましたりは、なかなか
しかねるんですが、・・・・・・」
「いいよ、もう。前から三好と生きていく事に決めてたから。柴山のことは自業自得と思うようにする」
「自業自得ですって?」と、言葉尻を捕らえるような維摩が皮肉を込めて続けた。「兄がですか」
「両方」
両方、と、すげなく応えた弥生の言葉をきっかけに、維摩の頭の中を、弥生と柴山の両方・・・・・・という二
つの項目が渦を描いて反響した。罪に対する罰をこうむったのは誰か?という、くだんの「自業自得」の意
味が、ここでは柴山と弥生の夫妻の双方に、ふりわけられていることについて、意見の相違から来る小さな
亀裂が、いまの弥生と維摩との対話の襞の中に織り込まれていた。だがすぐに、その細かな齟齬は襞の内側
へとたたみ込まれた。死人の生活感を残したこの部屋は、奇妙な和解の時間に包まれた。

四五

ひっそりした河原の土手のところを、朝はやく、金髪に染めた若いパパと野球帽の少年が散歩していた。
橋のたもとのガード下に死体がぶら下がっているのを見つけた子どもが「ミノムシだ!でっかいミノムシ
がいるよ」という声を上げた。蓑虫なんかよく知ってるなあ、とヤンキー風のパパが前方を見ると、通報し
てくれといわんばかりの死体を発見。不当にも子供から蓑虫呼ばわりされた死体は、ほんとうにその虫のよ
うにボトボトと大便の粒を落としていた。
安代なるものの卑小さは、いくら劫を経由したとしても何度も再生するはずだった。赤羽に類似した養父
の世界は、比喩でなく、空虚を中心にまわる生滅の世界だった。
維摩は安西に話しかけた。
「安西さん、例の・・・・・・赤羽さんの育ての父親は自殺したんですって?」
「首吊ったらしいな。暮らし向きの不本意に耐えられなかったんだろう。その安代という男は、智文くんと
それに実の娘さんまで手放して、人生の底辺まで没落した、と自分で感じたんだな」
「悲観したんですね」
安西は独り語ちた。「世の中に片付くなんてことは、ほとんどありゃしない。ただ一つの出来事を、いろ
んな角度で見てるから、あれが終わってこれが始まる、と途切れてるように思えるだけだ」
「三好さんは、一連の出来事に、責任を感じているみたいですよ」
「偶然が重なっただけだよ。彼の責任じゃないだろう」
「そうですよね。僕の兄だって発狂するって前からわかっていたことですから」
安代克巳も徹底した悪役として関与していた痩せた男だったが、物語の時間軸に沿って、やはり共同体に
よる無駄な努力の積み重ねでは届き得ない陰部に向けて、勝手に滅ぶことになったのだ。この点で赤羽は心
から安堵した。
帰ってから維摩は、兄の遺書をじっくりと読んだ。
おれは自殺を決めてからこのかたずっと、ドストエフスキーの癲癇の発作がみまう瞬間のたぐい稀れな歓
喜と、彼の死刑宣告−特赦−シベリア流刑の人生を連想し、とことん想像していた。原稿料の前借りとルー
レットでの浪費を内包した、この三段階式の展開の過激さと、発作を挿んだ動/反動(憂鬱、歓喜)のサイ
クルの体験にはとても及ばないが、つねにおれにもドストエフスキーの連想はあったし、そのような運命の
軌道に強制的に載せられながら、おれも自分の人生に、いわば自分で感謝しつづけてきたのだ。
柴山は投身自殺の直前、このように結論していた。

四六

路地には、色とりどり、小さな草花の鉢が置かれている。ある者は立ち、ある者は設置してある木製ベン
チに座っている。
年長者の安西を中心に、周囲を若者が取り囲み、柴山の葬儀の後の会合がひらかれた。ある者は喪服、あ
る者は私服である。安西じしんも、病室で死ぬことを厭い戸外で自滅を図った老人の喪に服していたが、フ
ォーマルな服を着用する習慣はなかった。そのかわり常ひごろからダンディズムを体現する装いを努めては
いた。その日の安西の姿は、サングラスにフレンチ・コートだった。
赤羽が維摩に「きみは中途半端な探偵だね・・・・・・安代としをりの正体もつかめないし、三好と弥生さんの
仲もさぐりあてられないんだから、徹底してないね」と言った。そのかたわらには、しをりが微笑して立って
いる。
安西が場にもそぐわない挿話を話しだした。合いの手は、若者の中でも少し歳が下で同い年の、維摩とし
をりがおもに担当し、あとのメンバーは聞き手として沈黙を保っている。
「振り袖火事の話を聞いたことがあるかな」
「ああ、おれ知ってる」と赤羽が言った。
「どういう話ですか」維摩が言った。
「江戸時代の話だよね」
「ある町娘が、祭りの日に若い侍を見初めたんだ。人混みの中でだから、すぐに通り過ぎてしまった。でも
その娘の頭の中では、ずっとその武士の姿が焼き付いて離れない」
「それでどうしたんですか」と、しをりが聞いた。
「派手好みの風潮のことだから、当時はファッションにも工夫を凝らして合って、その若い侍も、かっこい
いオリジナルなデザインで、練り歩いていたんだ。それで娘も考えて、自分で侍と一緒のデザインの着物を
作った。そうやって同じ模様の着物を着て、会う機会を待った」
「会えたんですか」
「だけど、どうしても会えない。そうして恋が昂じて熱病に倒れた。とうとう会えずじまいだった」
「かわいそうですね」
「どうなったんですか」
「恋煩いでふせって死んだ」
「侍はどうしたんですか?」
「知らない」
「着物は?」
「その着物は、その頃のしきたりで近所の寺にひきとられて、その後、供養の期間が済むと売りに出され、
別の娘がそれを買い取った。すると今度は、その年頃の娘が粋な若い侍の姿に取り憑かれることになった。
会ってもいない、妄想の中のその男の姿に惚れ込んで、そのまま、病の床についてしまった」
「ああ、男の顔が見えるんだ」
「ずっと、その柄の着物を着た侍の幻が見えるんだとさ。うわごとで若侍を慕う言葉をしゃべり続けるんだ
な」
急に湯藤が、その場の若い男性一同に「女の執念だねえ」と、のんびりした独特の口調で言ったので、す
こし皆が笑った。湯藤は、ゆいいつ、最初から物語に登場する男性全員と友情を保っている。つまり、三好
と柴山との心理的な距離に対し緩衝材の役目をしていた。維摩は、つねづね、この男たちの共同体の輪の中
では、安西と湯藤は比較的、気ままで暇そうな生活を送っていると思って、羨んでいた。湯藤は維摩と同様
に、物語全体の「無為」を包括的に臨める立場にあるが、しかし、やはり友達の苦悩に関しては結局、無力
なわけだった。同じ伝で、安西も維摩と共に、飄々としながらも登場人物たちの曲折を見守るが実際には、
彼らの有力な助けにはなりえない。
「そうやって、妄想に焦がれて死んだ。また町内の寺に引き取られ、また別の若い娘に売ると、その娘が若
侍の幻想に恋焦がれて熱で死んで、同じサイクルがつづいた」
何のためにこんな挿話が語られるのか、聞き手のほとんどは文脈が読み切れずにいた。単なる気まぐれな
興味から安西が話すのだろうと思って聞いている。ただ、赤羽と維摩だけは、これは冴のことを暗示してい
るんだなと勘づいた。それのみか、赤羽は、ある夏の晩に鑑賞したことのある薪能の場面を想起していた。
その瞬間は、現世で冴の生き霊が恨みを残す時点でもあるといえた。能舞台を心にありありと思い描きなが
ら彼は、一方、弥生にひと足先だって救済された位置にある、しをりを見た。
「さすがに寺でも、これ以上売りに出すわけにいかない、最初の娘の霊の仕業だからというんで、寺の庭で
着物を燃やすことにした」
「それで?」
「たき火の上に着物を載せて燃やそうとすると、突然、着物からボワーッと大きな火柱が立って、炎が文字
になって「南無妙法蓮華経」という形になった。その炎が庭から屋根へ移って、ほかの民家にもつぎつぎと
火が飛び、折りからの強い風で、どんどん激しくなった火が一帯に広がり、ついには江戸じゅうを埋め尽く
す大火事になった。これが名暦の大火だ」
話し終わると、さっそく赤羽は、しをりを促して「それじゃ安西さん、僕たちは、これで失礼します。冴
を迎えに行ってきます」と言い残し、立ち去ってゆく。この判じ絵が解けたとき、冴を捨てた、あるいは見
放した形になる三好と弥生の心理に、否応無しに微妙な影を落とした。
それとともに維摩も「僕も行きます」と去った。
安西は見送りながら「陰ながら祈ってるからね、ほんとだよ。きみたちが何か善いことに巡り遭えるよう
に」という餞を与えた。
こうして、しをりによって先に救われた体裁である赤羽、それに維摩が共同で、冴への救済の舵を取り始
めた。この時点で二人の考えは、やや三好と弥生の不幸を「自業自得」として裁断している向きがあった。
そういう限りでは、三好と赤羽の友情に仄かな谷間が縦に走っているようだが、じつは三好を許してやるよ
う、冴を説得しに向かったのである。

四七

三好は玄関に冴の姿を認め、この裁き手の出現におののいた。
つぎに三好は、そろそろ冬に入ろうとする公園に連れてこられた。
「お兄ちゃんに説得されて・・・・・・それで来たんだけど」
「どう謝ればいいか、わからない。どう、つぐなえばいいか・・・・・・」
三好は、半分は冴に問いかけて、半分自問し嘆いた。「おれはどうしたらいいんだろう?」
「俊也のこと全部許してあげるから、落ち込まないで、弥生さんと仲良くやっていって」
三好は、さすがに半信半疑で全身を傾けた。「・・・・・・ほんと?」
「うん、お兄ちゃんから説得されてね、俊也を未来にみちびいて欲しいって。あたしの言葉ひとつで俊也が
次の道に向かえるなら、それでいいよ」
「そう、ごめん・・・・・・、ごめん」彼は柴山の喪にあたり、みずからの運命を選択した三好の決意に対して、
いわば恩赦を与えられたも同然なのだった。
冴も泣きそうになっている。「あなたのこと許すから。あたしは大丈夫」
言葉が一気に吹き出した。「悪かった、おれは間違ってたんだ、全部・・・・・・いままで」
「俊也が決めたことだから、これから頑張ればいいよ」と冴は説諭するように言った。
「お兄さんはどうしてる?」
「しをりさんのおかげで、もう立ち直って、もう心配ないみたい」
「よかった」と木枯らしに掻き消される程度の声量で、こう三好は漏らした。
冴は三好に優しく手を伸べて、崇高な天使か聖女の面目をあらわした。
冴という使者を差し向けたのは、たしかに男ふたりの方便だった。維摩の発明した論理によれば(これは
意気地なしの我らが維摩の事ではないが)「大乗」という偉大な乗り物は、空の法というアナーキーな真実
のモラルにたっするため「方便」を要する。ときには所謂「嘘も方便」という慣用句も例にいれた多様な言
葉が、ふりむける(廻向)ための方便たりうる。たとえば月を指す目的で指先を突きだすと、隣にいた馬鹿
が「どれどれ?」と指の先端を見つめるだろう。このように愚かな者は指先という方便を理解せず、月とい
う目標を知らずに済ませる。

四八

つつましやかな暮らしが、ようよう幕を上げたようだった。
波瀾のあと、三好と弥生との頭上にも共通して穏やかな雲がたなびくようになった。
季節の移ろいにしたがって弥生の美しい髪も、だいぶ長くなった。
新しい夫婦は数日を無言のまま、いろいろな犠牲を払ってたどりついた幸福の余地を複雑な心境で味わっ
た。二人の静謐な実生活は、重たい沈黙に代表された。三好は、かつて彼本人があこがれていたプラトニッ
ク・ラブなるものを手に入れられたのだと思った。すくなくとも、日本的なオリジナリティである「沈黙で
伝える」という表現が二人の連帯には成立していた。
ある日、やや急な感じで、三好が「仕事を探しに行ってくる」と言い捨てて、玄関から出て行った。弥生
はそれを多少の心配まじりの顔で見送った。
だが、三好は冴からの救済を契機に、むしろ自己崩壊の熱狂に転落しはじめていた。
彼は呆然と電車に乗っていたが、崩落する自我が、だんだん真っ赤になっていった。彼の気合いによって
固定されていた心の余裕はブレ始めた。実生活に合わされていた良心のピントは、無意識に蟠る不合理に暈
された。視界の中のあれやこれやの物から、赤い色の塊がポンポン視線に飛び込んできて、強烈な赤が隙間
なく世界を埋めつくしていくやりきれない過程が彼を支配した。
そうして電車でひとまわりし、街に戻ってくると、三好は痴呆と化していた。弥生は発狂した三好を見て
驚くと同時に、隠されていた彼らの想像力の涯てがとうとう露顕したのを悟った。
弥生の報せを受けた赤羽が、列車に乗って二人の部屋に急いで向かった。

四九

三好の家は普通の一軒家だが、最後に、物語全体によって高められた友情と愛情との集結する終点となっ
た。赤羽は三好の家に入ってきて、すっかり変貌した友人の姿を見た。
彼の眼前には、いかにもビジネスマン然とした高級なスーツこそ着込んでいるが、いまや障害者に変わっ
て、アウアウと意味不明の声を上げている三好がいた。それが赤羽には「表現を追放する表現」の強制に聞
こえた。
三好というビジネスマンの生活の根拠は、たんに時代を変える風の来ない内輪うけの窓だった。気概によ
って爆破すべき独善と偏向、バカとキチガイのユートピアであり聖域だった。だれもが偽善者と偽悪者、加
害者と被害者にわり当てられる、ステレオタイプの幼稚園でありギョーカイだった。いま、三好の霊性、三
好の生命力は、そこから習慣と記憶という時間を集め、そうして摂取した創造性を、みずからの破滅と救済
という時間の所有に帰してしまった。いいかえれば、原罪と苦と欲望に対し予定調和的に「勝てる」という
見込みを捨て去り、「戦えば勝てる」という困難な要求、強い思想のもとに再生と治癒の機会が蔵された。
三好の眼、顔、声、物と言葉というロゴスは、如来が廻向する可能性の「摂」と、衆生が成仏する可能性
の「蔵」との視点を、彼の方便による演繹をとおして招いた。衆生の実存に「信じる」義務と「さとる」権
利があり、如来は「説く」ことで「救う」わけだが、この「往生」と「来迎」の両者は、時間の闇と認識の
光とで媒介なしに成立する環だった。そして赤羽は、そのときリアリティについて祈るしかない亡命=流刑
の場所に留まらざるをえない菩薩だった。
赤羽のか細い叡智は瞬時に、禁忌と畏怖の感情をともなってこの英雄の供儀のみじかい歴史を述懐した。
なぜか、夢・狂気・異形という悪魔的なものの体験の蓄積のあとでは、無駄なことは忘れて、本質的なこと
を思いだしやすい状態になる。
彼の内面では急速に、驚きのショックはもとより、こいつはどのみち自業自得だ、でも自分も責任を感じ
てしまう、・・・など、さまざまな感情を一度に呼び込む図案をつくっていた。それほど動転した赤羽の表情
は、その他にも、これでひと区切りついた、という緊張の解けた感じや、運命共同体としての友達を見舞っ
た不幸を自分も共有するのだ、といった諦念など多彩な側面にとらわれたのだった。
過去には三好との親密で朗らかな空間の共有があった。その神話的な想像力がささえていた事象の地平は
破綻した。前途を自覚した二人のサラリーマンらは、のちのちも運命に揺さぶられてゆく沈痛な行程を共に
する意志を固めた。赤羽はつくづくと思い知った。舞台では不義理を働かれた登場人物が「よくも恥をかか
せてくれたな」と思って報復に死んでいき、義理を貫かなかった主人公は発狂して、だらだらと生き延びる
という構造が心に突きつけられた。そしてこの構造だけが畢竟、魂にとっての無垢の成熟という変革の様式
に収斂してゆくこともあらがえない事実だった。

五十

赤羽は意を決して部屋にあがると、弥生と短い挨拶を交わした。
「ふりこんでいただいて、ありがとうございました」
一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。弥生の銀行口座に赤羽がわずかばかりの協力をして
いた事について、弥生がお礼を言っているのだ。
「お金のこと? いや、いいよ、そんなの」
赤羽は言いながら、なんとかして慰労の言葉を施そうという念を噛みしめていた。 もとより弥生にとって
は「自分が冴と柴山を窮地に追いやった張本人なのだ」という自覚が、発狂した三好に生涯、つき添ってい
くべき義務感を派生させたところである。
「そんなことより・・・・・・」彼はちらっと三好の方をうかがった。「施設に預ける?」
「いえ・・・・・施設の人に協力してもらって」
「通うんだ」
「はい」
「これからも一緒に暮らしていくつもり?」
「はい・・・・・・」
それから赤羽は聖なる白痴の三好に向かって、弥生の方を指して「この人誰だかわかる?」とたずねた。
しばし待っても、低く呻いているばかりで明確な返事はなかった。
かさねて「この女の人の名前は?言ってみて」と、個体の認知できない三好に、いまでも弥生の存在をち
ゃんと識別できるか、といった意図をこめた質問を行うのだった。
またもそれには答えてもらえず、三好は画用紙に何か叩頭しながら夢中で描いていて、それを赤羽にわた
した。
「似顔絵か」
幼児が描いたような稚拙な絵だった。雑駁に揺らいだクレヨンの橙色と、ひしゃげた目鼻と口が不器用な
線をうねらせ、かろうじて人の顔貌をなしている。この絵のそばに何か書いてある。似顔になった対象本人
の名前のようだ。
赤羽は顔の横の文字を指して「これ何?」と聞いた。
「この人の名前・・・・・・みたい」
ふたりは、絵に描かれた人物像は、弥生と冴どちらの女性の名なのかとドキドキしながら画用紙を見た。
二人で解読しようと必死に、いろいろ努力してみたものの、この悪戦苦闘にもかかわらず結局は読めない
不明の字なので、誰の肖像なのか分からず、二人はそろってため息をついた。
「じゃあすこし散歩しようか」と赤羽は三好に呼びかけ、つづいて弥生にも言った。「ちょっと表、歩いて
くるからね」
立ち上がり、連れ立って出かけようとする、その出がけに、いきなり三好がふり向いて「弥生さん、行っ
てきます」と声を発した。その声音は精薄児に特有の、場所柄をわきまえない地声の大きさなので、狭い部
屋には異様に反響した。
弥生のハッとした顔がある程度凍りかかり、まもなく我にかえった。赤羽と弥生はホッとして、顔をちょ
っとばかり見合わせた。危機感から解放された者の、祝福の意味での、笑みにならない微かな笑顔だった。
弥生にとって物語は、創造的な仕事をする可能性を断ち切られた男の、こんな挨拶で閉じた。

五一

街を歩いていると、チラホラと粉雪が舞ってきた。
彼らは「真如」という名のリアリティに到達することはなかったが、その代わりに「無明」の空から降り
てくる慰めの粒子を、こうして享受することができた。見上げると、ゆっくり空より送られた微妙(たえ)
なる挨拶が、若さから老いへ、生から死へ、そして季節から季節へと不可逆な時間が流れる地面の全部の転
機を荘厳していった。
さっきのビクッとしていた顔を解いて、弥生も窓から降りしきる雪を眺めた。
歩きながら、一面が「白」の一色に覆われていく「屈竟」の風景を眺め、赤羽は、こころに生成している
はずの人生への意志を感じた。彼の好きな宇宙論のレトリックを使えば、重力場で辺りのものが歪んでみえ
る重力レンズ像のようだ、と呼べるかもしれない光景だった。
薄曇りの天から降臨してきた死後と未生の雪が、街に、屋根に、門に、人に、生き恥をさらす赤羽に、腰
ぬけの三好に、美しい弥生に、あらゆる地上にたどり着いた。
水の中で夢をみている魂は、世俗の位相に立って、不覚(まよい)から覚(さとり)の領域を、すなわち
実存において如(ありのまま)の生きざまをうかがい知ろうとする。無明の雪は、今も霊鷲山かどこかで説
法ライブをおこなっているだろう釈迦の投げかけた謎・喩(アエニグマ)である。この世からこの世への追
善供養の象徴?
こうやって、倫理からの裁きを通過した精霊は、その得意の錬金術をもちいて、光=物質と闇=意識との
対立物の統一(conjunction of opposites)の作業を為しえたのである。
赤羽は三好を連れて一歩ずつ、裁きの根底を、災厄の無底を、眼つきの深淵をも、責任をもって踏みしめ
ようと決心した。彼らがまなざしを向ける視界の彼方にある認識の天球は、彼らが覚悟の呼吸をする地球と
並行して回遊していた。
雪は、無の結晶は、他人との審判と危機と距離とで型どられた世界全体の輪郭、色彩を覆い隠していく。
いま、そろって猫背で散歩するこの二人だけは、だれにも支配されず、どこにも所属していなかった。未
来への危機感も、他者との距離感も、彼らの無意識の「むしろ」という接続詞によって接続されたように、
正確に過去の自分たちと連繋していた。
「ごめんな・・・・・」
赤羽は、三好の肩に手を添えた。
「バカな奴だ。おまえもバカだし・・・・・・オレもバカだ」



〔了〕



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10306はじめまして目の病気再発な一坪 E-mail 6/2-18:14
記事番号10302へのコメント

投稿ありがとうございました!

すごい大作ですね。


実は目の病気が再発しちゃってディスプレイを見ると痛くて、
感想を書くことは無理なので、とりあえず投稿のお礼を。


では、これからもよろしくお願いします。